日本で最初の私立女子学校を創設し、また日本画家であり書家でもあった跡見花蹊あとみかけいは得浅斎の門下の一人として武者小路千家の茶の湯を学んでいた。跡見学園のホームページによると、跡見花蹊は天保11年(1840)、摂津国木津村(大阪市浪速区)の寺子屋を営む父跡見重敬(しげよし)と母幾野(いくの)の二女として生まれ、瀧野(たきの)と命名されている。父の跡見重敬は木津村の郷士で、伊達千広門下で和歌をよくしたとある。
当時、国内は大飢饉がもたらした不況下にあり、各地では一揆が相次いで起こり、跡見家も庄屋を務めたほどの名望家であったがすでに家運は衰え、花蹊出生時には暮らし向きは貧しいものであった。幼時から学問に興味を持ち、四歳から両親に書を習い始め、十二歳の頃に円山派の画家・石垣東山(いしがきとうざん)に入門して絵画を学び、十七歳で京都に遊学し、漢籍と詩文、書を頼山陽門下の宮原みやはら節庵せつあんに、絵画は円山応立(おうりゅう)・中島来章(らいしょう)・から円山派(写生派)を、日根対山(ひねたいざん)からは何宗派(文人派)をそれぞれ学び、花蹊はそれを生かした独自の画風を作り上げた。しかし経済的には苦しく、この間の学費は全て扇面絵付けなどの内職で得た収入をあてていた。
約2年後、父が公卿・姉小路家に仕えたため、安政6年(1859)に父が中之島(大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を受け継ぎ、独力で女子教育に着手した。この跡見塾が今日の跡見学園の原点である。慶応元年(1865)に塾を京都に移し、門下生に稽古をつける傍ら自らも書画や漢学の修行を続け、多くの門人に書画を教授した。
明治3年(1870)、京都の私塾を閉じて東京に移住し、神田猿楽町で私塾を開き、同八年(1875)には神田(東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。跡見女学校では、古来の文化や風俗を重視し、国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、点茶、絵画等の教科を取入れ、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。すでに京都で女子教育者として名声の高かった花蹊のもとには、多くの上流家庭の子女が集まり教えを受けた。また、赤坂御所において女官の教育にもあたった。
花蹊は、教育者としてだけでなく日本画家・書家としても活躍した。明治5年(1872)と同26年(1893)明治天皇の天覧での揮毫の栄誉に預かり、学校経営者としてのみならず画家としても名を馳せた。書家としても「跡見流」といわれる独自の書風を築き上げている。
花蹊は自らの学問を探求し、また多くの子女教育に多大な貢献をし大正15年(1926)87歳で没している。
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