花蹊の父重敬は松斎同様木津村出身で、跡見家の先祖が創建し一族が代々住職を勤める菩提寺である唯専寺(浄土真宗本願寺派)は松斎の実家である願泉寺とは通りを挟んだ隣に位置している。跡見家もその付近に屋敷を構え、重敬と松斎は旧知の仲で、また茶の湯を松斎に師事したと考えられる。また、重敬は伊達千広に和歌を師事し、千広は得浅斎とも懇意な間柄であった。
『跡見花蹊日記』によると、重敬はしばしば梶木町の木津家を訪れている記録が残されている。当時、重敬は姉小路家に仕官していて、中之島の跡見塾は娘の花蹊が近郷の子女に学問を教え、また塾を営んでいた。京都から大坂に下ると頻繁に得浅斎のもとを訪ねている。文久元年(1861)4月25日に、次のように記されている。
四月二十五日
此日、勝蔵さま参られ候。八ツ時、木津さ
まより呼に来り、父様と同道にて木津さま
へ参られ候。甚馳走頂戴サレ、一更に堺お
吟さまと皆々帰られ候。
この日、花蹊の叔父跡見勝蔵が中之島の花蹊のもとを訪れていた。そこに得浅斎から呼ばれて、父重敬が勝蔵を同道して梶木町の木津家に行き、食事の饗応を受けている。なお、この時、重敬は京都の公家姉小路公知の雑掌として仕えていて、大阪の花蹊の家に滞在していた。
また手紙のやり取りもあったようで、「父さまよりの文見せ、安心致され候」と、具体的にどのような内容かは不明であるが、得浅斎になにか心配事があり、京都からの重敬の手紙により安心したとある。重敬も勤皇の志士たちと交流があり、得浅斎と勤皇に関するやり取りが行われていたと思われる。そして重敬は松斎と得浅斎の二代にわたり茶の湯を師事していたと考えられる。
重敬の姉小路家仕官のいきさつについて、花蹊の直弟子藤井瑞枝が花蹊の語ったことを編集した『花の下みち』に、松斎の弟昇龍の室貞道が、京の公家の澤宣嘉(さわのぶよし)の娘で、その貞道の口利きで澤家の一族である姉小路あねがこうじ家に重敬は仕えたと記している。なお、貞道は宣嘉の養女と思われる。
姉小路家は澤家と同じく三条家の一族で、当時、当主の公知(きんさと)は明治の元勲として著名な三条実美(さんじょうさねとみ)とともに、尊皇攘夷の急先鋒であった。のちに公知は禁裏の朔平(さくへい)門もん近くの猿ケ辻(さるがつじ)で暗殺され(「朔平門外の変」)るが、重敬はその臣としてよく仕えた。なお、花蹊は姉小路家を通じ三条家はじめ澤家や石山家・萬里小路(までのこうじ)家・九条家等の公家に出入りし、その子女の師となり、また多くの絵画制作をした。このことが東京移住後、跡見学園を支える人脈を築くことになる。
このように跡見花蹊と得浅斎が茶の湯の師弟関係になる前から木津家と跡見家とは交流が深かったのである。
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