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2代得浅斎16 得浅斎の妻と子どもたち

 得浅斎の前室お雪は安政4年(1857)8月30日に没している。享年は不明である。亡くなった時の記録が岩永の『鐘奇斎日々雑記』に記されている。


 丗日 晴

 木津お雪不快、初更火急ニ申来、早速 

 罷越、一診河豚中毒危篤也、夜八ツ再

 呼来


とある。初更とは午後七時から八時の間で、木津家から火急の知らせがあり、早速馳せ参じたところ、お雪が河豚ふぐの食中毒で危篤に陥っていた。八つ時(午前2時ころ)に再び往診に赴いた旨が記されている。日記には具体的な状態はなにも記されていないが、月が改まって九月五日に、「木津葬式、名代春彦遣」とあり、二度目の往診の後にお雪は亡くなり、葬儀がこの日に執り行われたことがわかる。教信院貞龍。なお、11日の項に「木津お雪午時参詣」と記され、葬儀は春彦の代参で済ませ、11日に岩永自身が弔問している。その後、得浅斎は貞を河内狭山の馬場家から後添いとして迎えている。貞は明治29年(1896)に没し、法名を信遵院貞賢という。

 前出の通り、三代聿斎は得浅斎の十七子で、お千枝とお蓮・孝助を含め、得浅斎には過去帳で確認できる限り10人の子どもがいた。そのうち4人以外はみな流産または幼年で亡くなっている。ちなみに、江戸時代後期の平均寿命は男子は20、7歳、女子は28、6歳。これは乳児や幼児の死亡が全体の七割を占めていたことによる。今日十七番目の子どもというと大層驚くが、当時としては宜なることであったと考えられる。『鐘奇斎日々雑記』の天保十三年十二月三日に、

 

 木津小児全快ニ付被招、同席亀山・古

 林・米屋助右衛門、

 床 大綱和尚手紙、歌入、小児病気

   全快之喜状、霜月朔日、

   行としをことしも安く過すらん

   梅か香かほる埋火の本

 釜 寒雉 矢筈

 水指 青磁七貫 ふたもの

 炭斗 ふくべ

 焙ろく 吉左衛門

 花生 吸江斎 獅子 花水仙

 水指 紹鷗 曲水指

 茶碗 絵唐津 片口 (絵)

 茶入 宗旦判 小棗

 茶杓 直斎 共筒 廿之内

 袋 遠州カイキ

 建水 棒の先

 薄茶入 朝入大海 一啜斎判箱 

     了入箱

 料理 秋田春慶山折敷 

       一文字椀 (絵)

 ノンコウ形間赤

 吉左衛門 鮒こんふ巻

 汁 乾大根輪切 こまみかんの皮

 平 塩引さごし 漬松茸

 吸物 日光つくはね 梅ほし

 木地

 八寸 塩鰯一匹 ほしな

 赤絵魁鉢

 強肴 かれ切身 きんなん

 八寸エオ取替、夫に若狭小鯛、八ツは

        し、納豆、からすみ

 九郎作

 赤織部 (絵)きすこ細作 一火干  

      わかめす

 成化猪口(枝) あみ塩から

 直斎好 

 菓子 椀台 菓子椀敷ミそ 小米四角

    手製

 きん万八角盆 乾菓一品

 煙草盆 大徳寺形 萩

 一啜好備前かや壷 手焙 鮟鱇


「小児」とは得浅斎の長男透之丞(龍仙)で、9月20日に文禎が往診したのが初出で、その後何度か診察した旨が記されている。そして11月3日にその全快を祝う茶事がこの記述である。「行く年を今年も安く過ごすらん梅か香かほる埋火の本」と、大綱が全快の喜びの気持ちを込めた詠歌が記された軸が掛けられている。そして徳川治宝から拝領の家宝ともいうべき花入が用いられていることからその喜びが格別であったことがわかる。その後、透之丞は弘化3年(1846)7月17日に14歳で亡くなっている。葬儀は19日に執り行われた。四男肇(見龍)が明治4年4月15日没している。肇は宗税と名乗り、嫡男としていずれ木津家の三代となり、武者小路千家の茶匠となるべく困難な中、茶の湯の修行を重ねていたが、惜しくも25歳の若さで亡くなっている。得浅斎の悲嘆はいかばかりであったかと思われる。他にも六男巳歳四郎(降仙、明治2年没・1869)・九男楊甫・次女妙仙・七女智仙・八女智昇が確認できる

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