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執筆者の写真木津宗詮

2代得浅斎17 北風正造

 北風正造きたかぜしょうぞうは、郷士長谷川織部景則はせがわおりべかげのりと登士子としことの間に、天保5年(1834)2月11日に山城国紀伊郡竹田村(現京都市伏見区竹田)に生まれた。幼名を尚之輔、字は憲成、荘右衛門と称し、後に正造と改めた。父の景則は夙に尊皇の志が厚く、清水寺の月照げっしょうと親交があった。また母の登士子は有栖川宮家の老女で、近親にも同宮家に勤めている者もあった。正造はこのような環境に生まれ、幼少より勤王の心を胸に深く刻み付けられて成育した。九歳の時、関白九条道孝くじょうみちたかに仕え近侍となり、15歳で九条家を辞し、清水寺の忍向にんこうのもとに出入りをし、勤皇の志士達と交わり、剣術を学び17・8歳の頃には中谷謙助と名乗り、志士の群れにはいった。

 ところが兵庫津諸問屋北風家65代荘右衛門貞和そううえもんさだかずの養子となっていた実兄、荘次郎貞寿そうじろうさだとしが病死したため、正造が北風家に入家することになった。正造は19歳で貞和の養子となり、荘一郎貞知そういちろうさだともと名を改めた。まもなく養父貞和が老齢のため隠居し、正造が家督をつぎ六十六代荘右衛門貞央そううえもんさだなかと名乗った。

 北風家は北国廻船の問屋を業とし、米穀、肥料を販売し、他にも文化2年(1805)、蝦夷地御用取扱人を幕府より命じられていた。正造はそうした北風家に入家することにより、やむなく勤王の同志達と行動を共にできなくなり悶々たる日々を過ごすこととなった。そうした時に、旧知の忍向が兵庫津を訪れ「財力をもってしても、ご奉公はできる。いや今必要なものは勤王の志士たちを動かす軍資金である。」とさとされた。また北風家には『尼ぜ文書』という家訓を記した文書が伝えられており、そこには事業が大きくなり、財をなし、人が増えても私個人のものではなく、みな天皇からの預かりもので、時を得てそれらを世のため人のために有意義に使うようにと書れていた。これを正造は二22歳の春に読み、決意を新たに勤王の思いがいよいよ増したのである。実質的に正造が北風家の実権を握り一門の勢力を統率し名主となったのが28歳の時分で、この頃北風家の隆盛は頂点に達し、その名声は天下に知れ渡り兵庫津の支配をしていた。

 当時、幕府は兵庫津の日本全国の物資の集散機能の発展と北風家の富みに着目し、安政5年(1858)箱館産物会所の用達兼生産捌方取締を命じた。正造と幕府の関係はこの時から始まる。兵庫開港時には幕府商社肝煎を命じられ多額の御用金が科せられ、紀州家の銀札掛をつとめ、他にも幕府に1万4千両余の献金をした。さきに触れたように元来正造は勤皇派で、この幕府への誠実は勤皇の志を偽装するためのもので、その陰では文献に明らかなものだけで30万両以上の運動資金を勤皇の志士たちに提供している。長州に落ちる七卿を匿ったり、多くの志士達を助けている。さらに慶応4年(1868)には、東征大総督有栖川宮熾仁たるひと親王に6千両を献じている。

 維新後は積極的に政府に協力し、また私財を投じて兵庫港の海岸を防御するために民兵の「兵庫隊」をつくり治安維持をはかり、庶民教育振興のため“明親館”の設立に尽力した。また湊川神社の創建を進言しその造営御用掛となった。慶応四年の正月、東久世通禧ひがしくぜみちとみ総督が兵庫に新政を布くと諸支払向御用達を命ぜられ、永年の覆面を脱ぎ、名主の首班として兵庫裁判所(後の兵庫県庁)の公務についている。その後、会計官商法司法判事となり、同時に商法司法附属商法会元締となって金札を扱った。この時“荘右衛門”という世襲の名前を息子貞雄に譲り、自身は「正造」と改名し、以後官吏としては正造、御用達としては荘右衛門の名を用いた。その後も、兵庫県出納掛、通商為替会社頭取などを歴任した。

 なお北風家は古くから代々公共の事業に心血をそそぐという家風が有った。天保の飢饉の際には多額の施米施銀を行い、養父貞和の古希祝いと隠退を記念して約3万2千石の金銀が振る舞われたとある。正造もよくその志をつぎ、湊川の堤防の修築や、毎年12月には救民に施米をするのが恒例となっていた。慶応年間になり、幕末の世情の不安と相俟って米価の高騰により多くの窮民が続出したおりには、施米施銀、廉売米を行いその額は銀647貫700匁をこえたと記録にある。

 明治6年(1873)公職を辞した後も、兵庫新川開鑿事業や米商会社を設立し、第七十三国立銀行を創設して頭取に就任し、商法会議所等の各種事業の創設に尽力し、神戸港の開発につとめた。明治16年(1882)維新の功績により特旨をもって正七位を叙せられた。しかしながら家業は衰退し挽回につとめたが、明治18年(1885)12月、遂に破産している。その後も再建に種々画策したが遂にならず、明治28年(1895)12月5日、東京において客死し、遺骨は兵庫能福寺に埋葬された。法名は実行院覚道浄観居士。没後、大正4年11月に追陞されて従五位を贈られ、明治29年12月、兵庫県知事周布公平等が発起人となり、伊藤博文ら有力者の賛助で能福寺境内に顕彰碑が建てられている。

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