北風正造も養父貞和が松斎について武者小路千家の茶の湯を学んだことにならい、茶の湯を得浅斎に師事している。明治十一年(一八七八)一月に家元に入門している。そして同六月に一指斎から茶桶箱の許状を与えられ、その後も各種許状を受けている。そして妻の睦や息子の貞雄も同時に入門させている。正造にとっては維新の年、すなわち三十五歳までは尊皇の志に燃え、剣術に精進し白刃の中をかいくぐり、北風家に入家してからは経済的な側面から支援し、志士達とともに革命に尽力する日々を送った。維新の後は政府の新政に協力し、新たに兵庫神戸の港や街造りに勢力を傾けた時で、茶の湯どころではなかったものと思われる。同六年(一八七三)に公職を辞して、兵庫の財界で活躍していた頃、ようやく心にゆとりができ家族と共に茶の湯を楽しむことができる時を迎えたのだったのであろう。
明治七年(一八七四)に得浅斎が北風家に赴いた記録が残されている。多分この前後から、茶の湯に力を入れはじめたものと思われる。なお得浅斎も正造と同じく勤皇の志が厚く、その面でも深いかかわりがあったと考えられる。同十四年(一八八一)十二月一日に行われた北野天満宮での献茶に際し、正造は慶入の作になる絵高麗の茶碗を数茶碗として奉納している。このころはちょうど正造が茶の湯に力を注いでいた時期にあたる。
ちなみに、明治十一年の六月に家元に入門した兵庫の人に、神田兵右衛門こうだひょうえもんとその一族、安田惣兵衛やすだそうべえ。六月には一遍上人終焉の地である時宗の真光寺住職、翌十二年四月には藤田積中ふじたせきちゅう、その他一族のおもだった者、兵庫の有力者や政府の役人が多数入門している。神田兵右衛門と藤田積中と北風正造は今日「兵庫神戸の三功労者」として讃えられている。当時の兵庫神戸では武者小路千家の茶の湯を介したサロンが形成されていた。これは正造の大きな影響力が一端を担っていたことによる。
永年の念願であり前半生を総べて傾けた維新の功業もなり新政府により新生兵庫神戸ができあがり、残りの人生を心静かな茶の湯の世界に遊ぶはずであったのが、国事のため兵庫神戸のために家産を傾け、衰退し新しい時流に乗ることができず没落の一途をたどった。後年、北風家の衰退を気の毒に思う旧友や、伊藤博文ら有力な知己がその功を讃え、その栄達をはかるようにすすめ、爵位が贈られる話が持ち上がったが、正造はそれを辞退し、なにひとつ後悔しなかったとのことである。また周りに対しても憤慨も落胆もせず、なすべきことをなしたという心境で六十二年の生涯をとじたと伝えられている。
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