永源寺の一絲文守(いっしぶんしゅ)の竹に雀の絵を掛けました。
一絲文守は公家の岩倉家の祖である岩倉具堯(ともたか)の三男で、沢庵宗彭(たくあんそうほう)に師事し、沢庵が紫衣事件で出羽国に配流されると、これに従い、翌年に一人で京に戻りました。のちに愚堂東寔(ぐどうとうしょく)の法をつぎました。
近衛信尋などの公家との交流を深め、後水尾上皇の帰依を得、丹波亀岡に桐江庵(のちの法常寺)をひらき、しばしば上皇は京に呼び寄せています。その後、上皇は京都西賀茂に霊源庵(のちの霊源寺)を建てて住わせました。そして勅命により近江永源寺な入寺させ、東福門院(徳川和子)と彦根藩の井伊家の外護を得て伽藍が再興しました。
正保3年(1646)に39歳で逝去。後水尾上皇より「定慧明光仏頂国師」の号を賜っています。
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