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2月16日 稽古場の床

江戸時代初期の大徳寺の江月宗玩筆の普化置字を掛け、前に曙椿と白梅を高取焼の象耳下蕪花入に入れました。


普化

 常於街市搖

 鈴云、明頭來、

 明頭打、暗頭

 來、暗頭打、

 四方八面來、

 旋風打虚空

 來、連架打

   欠伸子書(印)


普化(ふけ)

 常に街市(がいし)に於(おい)て、鈴 (れい)を搖(ゆりうごか)して云はく、明頭來(みょうとうらい)や、明頭打(みょうとうた)。暗頭來(あんとうらい)や、暗頭打(あんとうた)。四方八面 來(しほうはちめんらい)や、旋風打(せんぷた)。虚空來(こくうらい)や、連架打(れんかだ)



普化はいつも町のなかで鈴をふって歌っていた、「明るい方からくれば明るい方でやっつけ、暗い方からくれば暗い方でやっつけ、四方八方からくれば、つむじ風のようにやっつけ、大空からくれば豆や稲・麦などの脱穀に用いる竿のように続けざまに打ってやれ。」

明るい方は賢い頭でも差別でもいいです。暗い方は愚かな頭でも平等でもいいです。いつ、どこから、何が現われても、それに対して自由自在に受けとめて対応する。そんな自由な境地を表わしているとのことです。

普化は、中国唐代の禅僧であり、生没年月日は不明で、生き様が風狂であったことからその名を残しています。普化という名も通称であり、本名も僧名も定かではなく、普化とは、突然に街頭に現れ、道行く人の耳もとで鈴を振り乞食をし、「普く化(布施)を求めた」ことから付いた俗称です。墓地で寝泊まりし、日が昇ると市場に現れ、鈴を振りながら前出の語を叫んだとのことです。



それを聞いた臨済が侍者に探りを入れさせ、「全くどこからも来なければ、どうするんだ」と問うと、普化は、「明日は、大悲院でお斎(とき)があるよ」という。それを報告すると臨済は、「おれは前からこいつをくさいとにらんでいたのだ」と言ったそうです。

翌日、普化は臨済のもとを訪れ歓待されました。普化の食べ方がおかずだけを平らげるという異様なものであったので、臨済は「まるでロバだ」と普化に言うと、普化は「メー」と鳴く。臨済が絶句するとすかさず普化が「小僧(臨済)には、片目しかないね」と言って去って行きました。『臨済録』の中に逸話で、臨済の上をいく存在として記されています。

その最期も、風狂僧にふさわしい話となっています。ある日、普化が「法衣をくれ」と叫んで、街中を歩き回りました。それに対して、臨済が棺桶をあつらえ普化に渡しました。普化は大喜びして、「臨済が私に法衣をくれた。私は東門で入滅しよう」と言いました。群集が東門に向かうと、「今日はやめた、明日、南門で入滅する」と言い、普化はなかなか入寂しません。そんなことが何度かあり、四日目になって、誰も来なくなると、普化は一人で城外に出て、棺の中に入り、道行く人に釘で蓋をしてもらいました。すぐに城内にそのことが伝わり、群集が押しかけ、棺を開いてみると、中は空っぽ。そして、ただ、空中に普化の、あの鈴の音が響くのみであった、と伝えられています。

なお、虚無僧の普化宗は、普化を始祖とする臨済宗の一派とされています。



江月宗玩は堺の豪商で織田信長の茶頭津田宗及の子で、9歳で京都大徳寺の春屋宗園に師事しました。大徳寺156世で竜光院2世、筑前崇福寺第79世、南宗寺第13世を歴住しました。小堀遠州や松花堂昭乗ら当代一流の文化人との親しく交わり、茶道、書画に堪能として著名です。


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