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3月25日稽古場の床 渡唐天神図

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮

更新日:2022年3月27日

床に東福寺の塔頭に伝来した渡唐天神図を掛け、花籠に東大寺修二会(お水取)の造花「糊こぼし」、書院に唐銅鶴首に菜の花、床柱に竹二重切に木瓜と貝母を入れ、手向の花寄をして偲びました。





菅公・菅原道真公は、延喜3年(903 )2月25日に亡くなりました。政争に破れ、太宰府に左遷され、不遇のうちに亡くなった菅公は怨霊となり、都の天皇はじめ貴族たちに恐れられ、その恨みを鎮めるために神として祀られました。京都東福寺の開山円爾弁円が宋から帰国して博多の崇福寺に住したとき,ある夜、菅公が現れて円爾に禅要を問いました。円爾は自分の師である宋の径山の無準師範を師とするよう勧めました。すると菅公は直ちに宋に渡り、無準に参禅し悟りを開きました。その証に衣鉢を与えられて即座に帰り,再び円爾弁の前に現れました。そして無準から与えられた法衣を見せたといいます。この図は手に梅の枝を持ち、道服を着、肩から嗣法の証の袈裟をいれた袋を掛けた菅公の姿です。この話に基づいて、後世多くの渡唐天神の像が描かれました。この逸話は、鎌倉時代から室町時代にかけ、五山の禅僧の間でいい出されました話です。なお、明の時代になると、中国でも本当のことであるとなり、文献にも残されているそうです。


河内の道明寺天満宮では月遅れの3月25日に「菜種御供(なたねのごく)」が催されています。同天満宮のホームページによると、稚児行列が菜の花をお供えて祭典が行われます。そして前日の24日から26日まで菜種色の団子を授与しています。この団子は、菅公の大宰府下向の後、おば君である覚寿尼公が毎日陰膳を据え、その飯を粉にして梅の実の形にした黄色の団子を作ったそうです。団子が病気平癒の効があるとして、参拝者がこぞって求めたという由緒だそうです。

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