5月8日 稽古場の床
- 木津宗詮
- 2022年5月8日
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元大徳寺僧堂師家の川島昭隠の雲水置字です。芍薬を手付籠に入れました。

雲水 •在嶺頭閑不徹 •流礀下太忙生

雲在嶺頭閑不徹 水流礀下太忙生 雲は嶺頭(れいとう)に在(あ)って閑不徹(かんふてつ) 水は礀下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうせい) それぞれ頭の文字を「•」で省略しています。出典は『虚堂録』です。雲は峰のいただきにあってどこまでものどか、水は谷川を流れてはなはだせわしない。その雲や水の無心の状態を謳っています。武者小路千家当代不徹斎家元の斎号の出典でもあります。
雲は峰のいただきにあってどこまでものどか、水は谷川を流れてはなはだせわしない。閑不徹は極めて靜寂、閑(しず)かさを強める助字で、「しみ入る」とか徹底の意味です。太忙生は非常に忙しいこと。雲と水の無心さを読んだ句です。
無心という言葉を使うのは簡単です。無心に浮かぶ雲のようにはいきません。凡夫の私は暇をもてあまし、邪念を起こして「小人閑居して不善を為す」。無心のままに谷間を流れる水はあくせくすることもなく、どんな障害にあってもただサラサラと流れるだけ。淡々とただ流れるだけ。多忙で困るということもなく、あくせく慌ただしく走り回らず、ボヤくことまない。閑静・多忙のいずれにも完璧に充実している。いかなる外的要因にも左右されない。まさりゆとりの姿です! 日々の仕事や暮らしの多忙さにかまけて忘れごとが日課となってます。この軸を見てると、いちばん大切なものをどこかへ置き忘れた気分です。茶湯は人の心にゆとりをあたえるもの。好きで始めた茶湯を職業にして人様にゆとりを差し上げる。その代償として自分自身のゆとりは無くなりました。これは悲しい現実です。 川島昭隠は大正時分の大徳寺僧堂師家で、当時、大徳寺の僧堂は聚光院で、禅堂が総見院の本堂でした。閑隠席が老師の隠寮で、聚光院の本堂から総見院の本堂に渡り廊下で繋がっていたそうです。ちなみに昭隠老師は先々代家元愈好斎と木津家3代聿斎の参禅の師にあたり、それぞれの斎号をつけた老師です。

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