自宅稽古場の床は、大綱和尚筆になる『徒然草』第百十七段です。花は、今朝庭で咲いた花菖蒲を二代須田菁華の染付高砂写し花入に入れました。
兼好法師のつれゝゝ草に
筆をとれハ物書かれ、楽器をとれハ音をたてんとおもふ、盃とれハ酒を思ひ、賽をとれハ攤うたん事を思ふ、心ハ必らす事ニふれて来る、かりにも、不善の/たハふれをなすへからす(、あからさまに聖教の一句を見れハ、何となく前後の文も見ゆ、卒爾ニして多年の非をあらたむる事もあり、かりにも今世文をひろげさ/らましかは、此事をしらん、是則ふるゝ所の益也、心更におこらすとも、仏前にありて、数珠をとり、経をとらハ、おこたる内にも、善業自修せられ、散乱の心なからも、縄床ニ座/せハ、不覚して禅定なるへし事、理本より二つならす、外相若そむかさらば、内證必熟す、しゐて不信といふへからすあふきて是をたふとむへし
紫野八十六翁大綱書(花押)
筆を手に取ったら文字を書こうとなるし、楽器を手に取ったら音を出してみたくなる。盃を見ればお酒のことを思うし、サイコロを見れば博打を想像するという。このように、良くも悪くも心は必ず動くものだから、道を踏み外すようなことだけはするなと兼好法師は言っている。難しい経典の文章の一部を目にするだけでも、自然と前後の文に目が留まり、にわかにこれまでの自分の誤った認識に気づくことがあるという。だから、もし経典を開かなかったら、一生、自分の誤りに気づかなかったかもしれないし、なにげなく経典に触れたことが自分の利益になったわけである。同じようなことは、仏前で数珠を手にお経を唱える場合にも当てはまり、やる気が起こらなくても、自然と修行の精神が身につくものだと言っている。外に現れる姿と、内側の真理は別々のものではなくつながっており、善い行いが道理に反するものでなければ、たとえそれが形式的なものであったとしても、必ず真理を悟るときが来るという。
新しい物事を始めるとき、まず格好や外見といった見た目から入る。そうするとやがて「本質」に至ることができる。兼好法師はなによりまず形から入ることが大切だとしています。これはなにごとにもいえることだと思います。よくよく吟味しなければならない名文です。
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