昨夜の稽古の床は平瀬露香筆になる短冊「夏月易明」。花は時計草を瓢籠にいれました。
夏月易明
うたゝねに其すゝしさをみる程も
月におくれて覚る夢哉 貞英
夏の月が涼しい光を放ちます。夏の夜は短く、うたた寝をしている間に夜が明けてしまい、あっという間に夢から覚めてしまいます。
平瀬露香は、天保10年(1839)大坂の両替商千草屋平瀬春温、高井れいとの間に生まれました。名は羯鼓次郎・亀之輔・春愛・春兄、別に同学斎・一方庵・宗十・独楽庵・宗超などと号しました。第三十二銀行を設立、保険会社や阪神電鉄を組織し、大阪貯蓄銀行取締役、日本火災保険社長、大阪博物場長となります。自身はまったく経営には携わらず、神道・王道・儒学・仏教・詩文・和歌・連歌・俳諧・書道・茶道・絵画・工芸・盆山・華道・有識故実・蹴鞠・諸礼・舞踊・武芸・鳴物・遊戯・雑芸など31にものぼる趣味に没頭する日々を過ごしました。
「大阪日々新聞」なにわ人物伝によりますと、露香はいずれの役職にも名前を貸しただけで、万事よきにはからえ式で鷹揚にふるまい、自分自身のことを、「私はシャッポかモーニングで結構です。まあ、床の間の置物ですな」といっていました。寄り合いで話がこじれ意見を求められると、露香はめったに時分の立場を明らかにせず、とはいえ人柄と学識には誰もが一目置いていたので、「どやろ。シャッポの旦さんにお任せしまへんか」とみなから信頼されていたそうです。そうしたことから、「平瀬さんは春風や。どんなに頑固な氷山でも、すぐ溶けてしまう」と財界人仲間からの評判もよく、そうしたことからやたらと役職を押し付けられました。
なお、財界の大物藤田伝三郎や広瀬宰平、土居通夫、田中市兵衛、松本重太郎たちと同席することも多かったのですが、彼らとはまったく話が合わず敬遠されたそうです。彼らが若い芸者たちに囲まれてにぎやかに騒いでいるのに、露香は隅っこでひっそりと老妓の三味線に合わせて、小唄を唸り、「じきに金もうけの話しやはる」と眉をひそめたそうで、胸襟を開いて語れる財界人はいなかったようです。
露香の日常は、夕刻に寝床から出て、文人・芸術家・茶人・華道師・能楽師たちを一方庵に招き、諸芸の話に花を咲かせ、蒔絵や古銭、名物裂などのコレクションを見せて楽しみ、夜が明けると寝床に就くことから、「蝙蝠大尽(こうもりだいじん)」と綽名されました。そうした中の常連に尾上菊五郎や三遊亭円朝などもいました。
前田貞郷の「露香翁の追憶」に、
翁は浮世小路でほとんど暮らした。二畳の玄関の次に八畳の間があり、壁には書物が積み重なって壁土は見えぬ。茶人・能楽師・俳諧宗匠・能の囃子方の面々、画人に古道具屋がやたらとつめかける。やがて食卓が置かれ料理が運ばれる。上戸は酒を、下戸は食う。めいめい勝手なことを言うから騒々しさは言語に絶する。翁は一滴も飲まず浮世話に耳を傾けるが、聞くに足らぬ話になるとさっさと書見する。そこへミナミやキタの老妓や清元の師匠たちが、割りこんでくる。翁はそこの節回しはちがうと直してやるから、どちらが師匠か分からぬ
翁の怒った顔を見た者は、ひとりもいない。怒声・罵声(ばせい)は無論、小言すらない。おそらくこの世で翁に叱(しか)られた者は、いないはずだ
と在りし日の露香を語っています。
露香は特に茶の湯に熱をいれ、2代木津得浅斎から武者小路千家流を学び奥義に達し、11代家元一指斎の没後、武者小路千家の家元預をつとめました。得浅斎の影響を受け、特に松平不昧に私淑し、不昧の大崎別邸にあった独楽庵の扁額を手に入れ、同名の茶室を作って茶の湯を楽しみました。のちに日清戦争後の不況での平瀬家の零落による道具売立ての際には、戸田弥七・春海藤次郎・山中吉郎兵衛が札元となり、益田鈍翁・根津甚一郎・藤田香雪らが参加し、一万円を越える道具が三点も出て財政危機を乗り切りました。明治41年(1908)、69歳で没しています。
露香は「今蒹葭堂」「上方の粋の神」とも呼ばれ、近世大坂最大の文化人木村蒹葭堂とともに、大阪の文化力を体現した人物でした。露香の没後、彼のような多芸多才な文化人は現れていません。まさに最後の粋人であり、真の旦那衆でした。
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