平瀬露香の養嗣子露秀の短冊「撫子」です。
撫子
ゆふまくれ家路いそきて行く人の
しはし見かへる河原なてしこ 露秀
夕暮れ時に家路を急ぐ人を、しばしば河原撫子が振り向いている、という誠に平易な和歌です。 撫子は秋の七草の一。なでるようにかわいがっている子とか、いとしい子や愛児を表します。和歌などでは植物の「ナデシコ」と「撫でし子」を掛け詞にして子どもや女性にたとえる用法がしばしばあります。 古典では、秋のものとして扱われています。『枕草子』では、
草の花は、なでしこ、からのはさら也、大和のもいとめでたし(草の花は、撫子、唐なでしこはなおさらである、大和のも、とっても愛でたい)
とあり、そのあと、女の華やかさは、撫子、大きいのはなおさらである、大いに和らぐのも、とっても愛でたいといっています。 このように、当時の貴族にいかに愛玩されたかがうかがえます。また異名である常夏は『源氏物語』の巻名のひとつとなっていて、前栽(せんだい)に色とりどりのトコナツを彩りよく植えていた様子が描かれています。
「夕間暮れ(ゆうまぐれ)」は「まぐれ」が「目(ま)暗(ぐれ)」の意で、「間暮」は当て字です。夕方の薄暗いこと。また、その時分。ゆうぐれのことをいいます。目の前が暗くなることですが、目の前に手をかざして、手の平の手相線が見えなくなることをいいます。それに対し、「夕暮れ(ゆうぐれ)」は日の暮れるころ。日暮れ。たそがれのことです。「黄昏(たそがれ)」は「誰れ彼」から来た言葉といわれます。暗くて誰かわからない時間帯をさすので、こちらの方が遅い時間帯のことをいいます。なお、黄昏(たそがれ・コウコン)は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯をいいます。西の空から夕焼けの名残りの「赤さ」が失われて藍色の空が広がると、「まがとき=禍時」という時間帯に入ります。 「たそがれ」は、古くは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略です。暗くなって人の顔がわからず、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味です。なお、対になる表現に夜明け前を表す「かわたれどき(彼は誰時)」があります。本来はいずれも、夜明け前・日没後の薄明帯を区別せず呼んだと考えられます。 ちなみに、最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態を表すのに「黄昏時」という比喩にてかわれます。本来、和語「たそがれ」は、漢語「黄昏(コウコン)」とは無関係な語で、「黄昏」は「コウコン」と読む漢語で、十二時辰(1日を12等分した2時間ずつ)の1つ「戌の刻(いぬのこく)」の別名です。日没後2時間±1時間後にあたります。
ちなみにこの軸は露秀の形見で、表具には露秀の生前中の着物裂が用いられています。箱書は三代聿斎が書いています。そこには平瀬家と当家の深いえにしをみることができます。
花は木槿と秋海棠・定家蔓・秋明菊・矢筈薄を鉈籠に入れました。
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