三好長慶

三好長慶は、父は阿波・山城守護代三好元長の子で、幼名千熊丸、通称孫次郎、実名ははじめ範長。伊賀守、筑前守、修理太夫と称しました。将軍足利義輝を近江へ追放し、事実上の独裁政権を樹立し、山城・丹波・摂津・和泉・淡路・讃岐・阿波・河内・大和を併合し北条氏と並ぶ大大名に成長します。堺や安宅水軍を擁し鉄砲など最先端の軍事技術を保有し、キリシタンも受容しました。しかし晩年は家宰松永久秀の台頭に押され、嫡子義興を失い、将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死しました。文芸に秀でて連歌の名手でもありました。



 茵  蒲 工夫綿密、坐破 一團、長慶膝下 何渉多端   生苕叟書(印)


茵蒲(いんぽ) 工夫綿密(くふうめんみつ)、一団を坐破(ざは)す、長慶膝下の、何ぞ多端に渉(わた)らん


古嶽宗亘(こがくそうこう)の墨跡です。長慶は古嶽に就いて力を尽くし励んで坐禅にいそしみました。その修行は徹底したもので、坐蒲(ざふ・坐禅の時に用いる敷物)が破れるほど徹底したものです。長慶の膝下、すなわち長慶その人は悠然と坐して、何一つあくせくと求めるものが無い、まさに「無一物」、悟りの境地に至っている。

古嶽宗亘は、大德寺第76世で、塔頭大仙院の開山です。また、堺の南莊舳松に南宗菴を営み、のちの南宗寺の先蹤をなしました。

三好長慶の参禅の師である古嶽宗亘が長慶の禅の力量・境地が大層勝れていることを讃えた内容の軸です。茵蒲は釈迦が成道する時、草刈り人が差し出す吉祥草を受取り、ピッパラ樹(菩提樹)の下で吉祥草を敷き詰めた金剛宝座で、結跏趺坐(けっかふざ)して深い瞑想に入った故事に基づいています。