このような売茶生活の境地を、売茶翁は自身の志を述べた『対客言志(たいかくげんし)』に、今時の僧侶は寺に住みながら、心は世俗の者と変わらない。そして布施を貪り、施主に媚びへつらう。施主はわずかな布施で恩を売り僧を見下す。これらの布施はすべて執着の心である有心(うしん)の不浄の食である。私は有心を嫌う。だから布施を受けて生きていく僧をやめてしまおう。ところがやめてしまうと忽ち困窮してしまう。徳の高い先人たちは草履を編んだり、渡守になったり、柴を売るなどしたが私にはできない。そこで鴨川の河辺、人通りの多い所で小さな店を出し、茶を煮て往来の客に売って飯代にする。これが予(かね)てからの私の願いに叶っているのだ、と記しています。出家であるということだけで他人の布施を受ける在り方を潔しとせず、決然とそれを捨て茶を売って自活する生き方を選んだのです。このことは逆に「袈裟の徳にほこりて人の信施をわづらはす」輩と同じ世界に暮らすことを拒絶する行為でもありました。『対客言志』には「売茶は児女独夫の所業にして、世の最も賤ずる所なり、人の賤ずる所、我れこれを貴しとす」とあります。売茶翁は、世間では貴いという出家が賤しく、世間が賤しいという売茶を貴いとしていたのです。売茶翁の生真面目な性格と、当時の仏教界に対する痛烈な批判を見ることができます。 寛保2年、68歳で還俗して出家の世界と決別し、姓を高(こう)、名を遊外(ゆうがい)と改め、売茶翁と呼ばれ、自らも売茶翁と名乗りました。そして、
非僧非道又非儒、黒面白鬚窮禿奴 僧に非ず道に非ず又儒に非ず、黒面白鬚窮禿奴
(こくめんはくしゅきゅうとくど) 僧侶でもなく道士でもなく、また儒者でもない。黒い顔、白い鬚の貧乏な禿の男と自らをいい、売茶生活を送ることにより、貧苦を代償として完全な自由を手に入れたのでしょう。延享元年(1744)70歳の時、相国寺塔頭林光院に移り、以後、宝暦4年に80歳で聖護院村に移るまで同院に住まいし、『梅山種茶譜畧(ばいさんしゅちゃふりゃく)』を著しています。やがて老齢となり、茶具を担いで店を出すことが困難になったため、81歳の時、自らの分身であるが如く長年にわたって携えてきた「仙窠(せんか・売茶の業に愛用した茶具を入れて運ぶ籃)」を焼き、売茶生活をやめてしまいました。「仙窠焼却語」の一文に、 却後或辱世俗之手、於汝恐有遺恨、是以賞汝以
火聚三昧、直下向火焔裏轉身去 却後(きゃくご)或いは世俗の手に辱(はずか)
しめられば、汝に於(おい)て恐らくは遺恨有
らん、是(ここ)を以て汝を賞するに火聚三昧
(かじゅざんまい)を以てす、直下(じきげ)
に火焔裏(かえんり)に轉身(てんしん)し去
れ とあります。世俗の手に辱められたら,お前は私を恨むだろう。だから火葬に付そう。成仏しなさい、といっています。以後は揮毫の礼物や布施などにより生活したようです。そして宝暦13年(1763)7月16日、蓮華王院の南、幻々庵において89歳の高齢で示寂しました。遺言により、遺骨は砕かれて川に流されたと伝わります。このような売茶翁の生き方は、世間に対する警鐘でもあり、覚醒を促した行為でもあり、売茶翁の真の出家としての実践の一つであったのでしょう。 是誰は売茶翁から為書入りの軸を贈られていることから、大変親しい間柄であったことがうかがわれます。元禄15年(1702)生まれの是誰は、売茶翁より27歳年下で、是誰が「昨日少年今白頭」の一行を認めた82歳の時には、売茶翁が亡くなって久しい年月が過ぎています。しかし共に当時としては珍しく80超えて長生きをし、是誰にとっては感慨深い思いもあったことでしょう。売茶翁は81歳で認めた墨跡の署名に、「九九翁」と年齢を表記しています。中国では、十進法で9が最大の数字で、その9と9をかけると81、これは新たな始まりを意味します。81歳の時、売茶翁は長年愛用した仙窠を焼却して売茶生活と決別し、新たな生活に進みました。奇しくも同じ81歳という年齢の時、是誰には武者小路千家の長老として一啜斎を支えるという役目が発生しました。当然、体力は衰えていますが、気持ちは新たなスタートラインに立つという心境であったことでしょう。
売茶翁作円窓花入
売茶翁作鶏冠井香合
安田是誰一行「無事是貴人」
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