初代松斎宗詮 14平瀬春温

更新日:2019年10月5日

五代春郷の六男で、兄水が天保六年(一八三五)に亡くなったことにより、十八歳で家督を相続した。はじめ収五郎、のちに宗十郎と名乗り、士陽しようと号している。天保六年(一八三五)に家督を相続している。

春温(はるあつ)は茶の湯を松斎に師事し、武者小路千家十代以心斎の門人録には天保十年(一八三九)に小習六ヶ条と唐物点・茶通箱を松斎の取次ぎで受けている。松斎の他会記「昨今茶事扣」に、春温が卜深庵で催した十三回分の茶事の会記が記録されている。春温は実際に茶事を通じ松斎の指導を受けている。

 嘉永三年(一八五〇)、春温は本宅東隣の控邸の改造をし、玄関・茶室・開きの間・腰掛待合・砂雪隠・中門・水屋・懐石料理室・袴付等を包含する大茶亭としている。この控邸は天保二年(一八三一)に春郷が尼崎屋市右衛門から代銀五十五貫目で本宅東隣を買い取ったもので、同七年(一八三六)に台所・居間・茶室等を春郷が普請したものである。茶室には二代得浅斎の参禅の師である大徳寺拙叟宗益(せっそうそうえき)筆の額が掲げられた又隠(ゆういん)写しで、その露地は松斎の作庭である。露地には堺南宗寺集雲庵(しゅううんあん)の袈裟型蹲踞(つくばい)と織部灯篭が据えられていた。又隠写しには六畳の続きの間があった。茶室の造作にも松斎が関係していたと考えられる。

平瀬家歴代の墓

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得浅斎は治宝の信任が厚く寺社奉行や勘定奉行等の要職を歴任し、紀州藩の藩政改革を推進し、藩内の尊皇論を主導した伊達千広(だてちひろ)・宗広(むねひろ)と親交を結んでいた。なお、宗広は治宝没後、その側近が一斉に粛正された時、田辺(和歌山県田辺市)に10年近く幽閉され、のち脱藩して尊皇運動に参加している。その千広の六男が坂本龍馬の海援隊の一員で勤皇の志士であった睦奥宗光(むつむねみつ)である。ちなみに陸

得浅斎も松斎同様紀州家に仕官している。その時期の詳細は不明であるが、『高松侯上使日記』の嘉永7年(1854)1月二25日に「宗隆主人屋敷ニ出勤」とあり、どのような役職に就いていたかはわからないが、この時点で確かに紀州家に仕えていたことがわかる。 文久3年(1863)秋に写された『文久元紀士鑑』に、「五人扶持、木津宗隆、大坂住御用勤」とあり、大坂在住で御仕入方(おしいれかた)の御用を勤めていた。また