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平瀬露秀

平瀬露秀は、明治9年(1876)に平瀬家の一族冨子助次郎の長男で三七雄、のち名を春齢(以下露秀という)と改め、露秀と号している。露香の養嗣子として平瀬家に迎えられた。

東京商業学校を卒業後兵役に服し、明治40年(1907)に家督相続した。この時期の平瀬家の家勢は衰退の時期にあたり、露秀は改革と同時に堅実な経営に努め、その甲斐あって家運も挽回し、露香も設立に参加した大阪貯蓄銀行頭取に就任、大阪財界の一躍を担うこととなった。露秀が武者小路千家に入門した時期は不明であるが、露香在世中には稽古をはじめていた。前出の通り。明治41年(1908)、露香の没により家元預を継承し、翌42年に聿斎に引継ぎ、控邸を聿斎に提供し官休庵家元稽古場とするなど、露秀は聿斎の最大の後援者であり理解者であった。そのあたりのことを聿斎の長男乙象が当時を振り返って『武者の小路』に記している。 


此の責任を果すに至る迄に父宗泉(宗詮)の陰になり陽になつて、推進力となられてゐた人に露秀三七雄氏があった。露秀氏と父との間は普通人の距を超えた厚情があつた。父は露香翁を見送つてから唯一の相談相手とも指導者とも考へ、実に痒い所へ手の届く尽し合をしてゐた。露秀氏がなかったならば官休庵復旧の宗泉一代の大責任は果し兼ねたかも知れなかった。人一倍負け嫌の父も此の露秀氏には一目も二目も置いてゐたやうであつた。露秀氏は 父の盟友であり善意の制動機に行なつてゐられた。


大正7年(1918)の愈好斎襲名、武者小路千家の復旧にあたり、露秀は聿斎とともに多大な支援を行っている。同11年(1922)に戸田露吟の息子露朝とともに、花笑斎の立会のもとで乱飾と真台子の伝授を愈好斎から受け、同13年3月14日に木犀居(本宅)で口切茶事の初回を催した。露香自筆の掛軸や、好み茶道具はじめ、平瀬家伝来名器である千種伊羅保や、不昧の呂宋壷に加え、一指斎好みの茶道具等を用いるなど、露香とはやや異なる道具組となっている。これは売立で多くの名器を手放したことに加え、露秀自身が平瀬家の当主として武者小路千家の茶の流れを汲む家であることを強く意識していたことによると考えられる。露秀は「後一方菴露秀」の署名を行うなど、露香の茶の湯の後継者としての自負を持って、平瀬家の復興を考えていたようで、露香が晩年に手放した道具の買い戻しを図っている。露秀の晩年には、御堂筋の拡張工事に伴い本宅・控邸はともに取り壊された。新たに聿斎の設計により、京都室町通一条の屋敷にはかっての控邸と全く同じ建物が建てられたが、惜しくも竣工前の昭和2年(1927)4月、52歳でなくなっている。


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