土佐貞親「忠度都落ちの図」です。
平家一門で清盛の末弟にあたる平忠度は文武に長け、特に和歌を藤原俊成に師事し歌人としても優れていましたた。寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちの際、忠度は従者6人を引き連れ都に引き返し、俊成の邸を訪れました。そして秀歌と思われる歌百余首が記されたれた巻物を俊成に託して西国へと落ちて行き、一ノ谷の戦いで戦死しました。のちに『千載和歌集』の撰者となった俊成は、その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていましたが、忠度は勅勘の人だったので忠度の名を憚り、「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ「詠み人知らず」として入れました。その歌は、『百人一首』にもある、
さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山ざくらかな
です。
なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて「薩摩守忠度」として掲載されています。まことに風流でしみじみとした私の大好きなお話しです。
長文ですが『平家物語』の忠度都落ちです。
薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん。侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず、「忠度」と名のり給へば、 落人帰り来たり、とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、 「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ」 とのたまへば、俊成卿、 「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」 とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。
薩摩守のたまひけるは、 「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。 撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」 とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。 三位これを開けて見て、 「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」 とのたまへば、薩摩守喜んで、 「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」 と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷の花といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、詠み人知らずと入れられける。
さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山ざくらかな
その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなりや
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