• 木津宗詮

織部灯篭

 桃山時代、茶の湯の興隆により、新しく茶の湯の露地が生まれ、夜の茶会の為に露地の明かりとして、古社寺の石灯籠が利用されるようになりました。江戸中期の茶人 松本見休による有楽流茶法と点前伝授の書である『貞要集』によると庭に灯篭を取り入れたのは千利休が始まりとしています。実際、茶室の露地に積極的に灯篭を用いたのは古田織部であったとされています。茶人の好みの灯篭も新しく創作されます。その代表的なものが織部灯篭があります。『古田織部正殿聞書』に、


 直柱之本台石之有ハ悪シ、柱之本ヲ直ニ地掘入テ

 吉、トウロ惣之高サ見合能程也、低ク居ルハ心持

 吉、高サハ不定、掘入地形直ニシテ可掘居也


通常、灯篭は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎・基壇から構成されます。織部灯篭は下方の基礎・基壇がなく地面に竿を直接生込んで設置します。こうしたことから一般的な社寺の燈籠に比べてやや小ぶりで、比較的地味で庭の状況に合わせて竿を地面に埋めて燈籠の高さを調整できることから茶の湯の露地の趣を深くするということから好んで使われています。なお、一部の人たちから、竿の部分の上部が横に張り出しているため従木の長いラテン式十字架とかT字型のエジプト十字架模していると解釈され、また竿の上部に十字の文様やアルファベットを組み合わせたような異形の文字記号が陰刻されていてそれをキリシタン関係の「IHS・ FILIUS、・ PATOLI」と見立てられ、また下方に立像をイエスであるとかバテレン(宣教師)、マリアなどの像を浮彫にしたものとし、キリシタンの礼拝の対象にされたものであるとされています。すべてこの竿がのちに述べるキリシタン灯篭であると見立てる根拠になっています。織部灯篭と呼ばれているいるものの、確かに織部の考案したものかどうかは定かではありません。一部の道具が利休好みや遠州好み、石州好みのようにのちに著名な茶人の好みに仮託されたもの同様のものかもしれません。ちなみに織部灯篭とよばれているものの最古の遺品は慶長20年(1615)銘の「凉庵織部灯篭(現国際証券蔵)」で、寛永21年(1645)銘の「北野天満宮三光門脇織部灯篭」や織部の弟子小堀遠州が作庭したとされる桂離宮の7基の織部灯篭などの比較的初期のものがあります。

 大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。

 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著実である」と手厳しく酷評しています。 

 古田織部がキリシタン大名と呼ばれていますが、妹は確かにキリシタンであったものの、織部自身はキリシタンであったのかどうかは定かではありません。ただし十字の入った黒織部の茶碗がキリシタンとの深い関係を示すものだとの指摘もあります。またいち早く南蛮文化の影響を受けいれた織部の斬新な現代的な美意識が茶の湯の世界に用いたともいわれています。そういうことからキリシタン灯篭が織部の好みとされたものと思われます。松田毅一は灯篭のデザインは中世以前からの仏教関係の古い石造文化財の影響を受け、記入されている記号は供養塔、墓標、庚申塔に刻まれているものが刻印されているようだといっています。そして日本のキリスト教関係者も日本の隠れキリシタン、または近代のキリスト教徒もキリシタン灯篭を信仰の対象にしていないとしています。実際、キリシタン灯篭を発見しては騒いでいた人たちは、まったくキリスト教とは関係ない人たちで、デザインがキリスト教っぽいからということかそのように主張したようです。その上、キリシタン灯篭と主張する人たちはそれを信仰したはずの地元のキリシタンの調査をしていません。信仰していた信者や子孫または子孫たちの口承が存在したということをもとに立証しない限りそれを肯定することはできません。ただし完全に否定することもできませんが…キリシタン灯篭がキリシタンの遺物であるという説はあくまでも信憑性の無い仮説でしかありません。実際、文化財指定を受けているキリシタン燈籠について調査した結果、その地域にキリシタンが存在したという程度の場合がほとんどであり、キリシタンとの関連は希薄だそうです。また福岡県朝倉市秋月の燈籠はキリシタンが所有していた可能性があるものとされていますが、礼拝に使用されていたという伝承や史料は全くないそうです。現在、日本全国に相当数のキリシタン灯籠があり、それを信仰の対象にしたのならそれに見合う数の隠れキリシタンがいたはずです。信教の自由が認められた現代日本でのキリスト教徒は人口の0.6%だそうです。ましてや厳しく取り締まられた江戸時代にどれだけの信者がいたのでしょうか。

 『国史大辞典』にも大正末年頃からこれを隠れキリシタンの礼拝物とする説が生まれ、石燈籠研究専門家やキリシタン文化の専門学者も、キリシタン灯篭説は信じていないとしています。ところが現在もキリシタン灯篭説が世間に流布されたままで、教育委員会の文化財の説明板にも未だにキリシタン灯篭であると説明しているものもあります。実際、有力な根拠もないキリシタン灯篭説のみ取り上げて否定説を全く無視しているのは如何なものかと思います。せめて説明版に一言否定説もある旨を記入すればよいのではないないのでしょうか。


  北野天満宮 織部灯篭








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