袖摺の松

 大山崎町(京都府)の妙喜庵の茶室「待庵(国宝)」は唯一現存する利休好みの茶室です。待庵の東側に植えられている「袖摺(そですり)の松」について、『都林泉名勝図絵』巻五に、


  袖摺松、茶室の東側にあり、利休ここに幽棲の時、秀吉公来輿し給ひ袖摺て、茶亭へ入

  せ給ふとぞ


      『都林泉名勝図絵』巻五


とあり、実際に利休が妙喜庵に隠棲していたかは不明ですが、豊臣秀吉が待庵に入る時に袖を摺った松とされています。片桐且元の「宝積寺絵図」の妙喜庵には、石垣と門と一つの屋形に一本の大きな松が描かれ、「妙喜庵」、「かこひ 袖すり松」と書かれていて、この「かこひ」が待庵であるならば、利休が待庵を好む前からこの場所にあった松と思われます。なお、この松は享保年間には枯れてしまい、その跡に2代目が植えられますが、これも昭和40年(1965)に枯れ、現在はその実生の3代目の松が同じ場所に植えられています。


    2代目袖摺松


2代目袖摺松古材茶杓 大徳寺嶺雲室管長 銘嘉翠

3代目袖摺の松

待庵


利休の露地

 利休は露地に松や樫等を好んで植えたようで、桃や桜のような花が咲く木や、枇杷のような里の木は植えなかったようです。あらわに季節を感じさせる植物は、席中の床の花や季節を表す茶の湯の道具等の趣向を相殺してしまいます。このことは利休の有名な朝顔の逸話に通じます。

 また、宗旦四天王のひとり藤村庸軒の女婿久須美疎安(くすみそあん)が、義父から聞いた茶話をまとめた『茶話指月集』に、次のような利休の逸話があります。ある時、利休の息道安の弟子の桑山左近が、利休へ露地のしつらいについて尋ねたところ、利休は


  樫の葉のもみぢぬからにちりつもる 

  奥山寺の道のさびしさ


とこの一首にて心得よと言ったとあります。利休は露地のしつらえに対する思いを、鎌倉時代の僧慈円の歌で示しました。深山の寺に続く道に樫の葉が色づく前に散りつもった寂しい風情が利休の露地なのです。そして利休の作と伝えられる歌に、


  路地はただ浮き世の外の道なるに

  心の塵をなぞ散らすらむ


茶室への通路である露地は、現実から離れる道であり、そこに俗世間の妄念をまき散らしてしまってはいけないとしています。利休の露地は、俗世間と隔絶された非日常の世界へ入る関門なのです。里の木は茶の湯の理想とする「市中の山居」という露地の趣を壊してしまいます。妙喜庵は町中にあるわけではありませんが、利休は妙喜庵に初めからあった松を活かして、利休好みの露地を造ったと考えられます。


白樫


初代袖摺の松

 享保年間に枯れた初代の松の材で、表千家6代覚々斎が割蓋で溜塗の老松茶器と金林寺茶器、鴛鴦の香合、四方盆を好み、裏千家6代六閑斎がこの材を用いて菱屋三四郎の茶室を好んでいます。その時分に、待庵が建てられて200年近くが経過し、大掛かりな修繕が必要な状況を迎え、表千家の覚々斎が茶室をはじめ露地の工事を施したようで、これらの好み物はその費用の捻出のためでもあったと考えられます。この時に枯死した松の材を三千家に頒けて、それぞれが道具等を好んで社中に頒布し、そのお金を妙喜庵に寄付したのではないかと思います。武者小路千家では6代真伯の時代に当たり、具体的な事例は伝わりませんが、他の千家の家元たちと同様のことが行われたのではないかと考えます。そして武者小路千家に伝えられていたこの松材を、のちに7代直斎が妙喜庵卓として好んだと思われます。妙喜庵の袖摺りの松と似た話として、大徳寺の「五老の松」が枯死した時も、大板に挽かれて三千家に贈られています(木津松斎『松斎手扣』)。五老の松とは大燈国師の手植えの五本の松とされていた木です。この松材については利休二百五十年忌の記念として、以心斎が利休松之木盆の写しを、表千家の吸江斎は春斎に力圍希棗を造らせています。


老松茶器



松之木盆写



力圍希棗



直斎好み妙喜庵卓

 直斎により新たに創作された妙喜庵卓の箱書には、


   四本柱卓

    天井板妙喜菴

      枩板以造之

     千宗守好(花押)


妙喜庵卓箱書


と認められ、箱の甲に「妙喜庵卓」と記されています。作者については記されていません。形状は天板と地板と四本柱からなる卓で、天板に妙喜庵の松材を用い、透漆をかけ、松の杢目を見せています。地板は別の松材で、表面は溜塗にさざ波の蒔絵がほどこされています。裏面は透漆とし、その中央には小判形の枠の中に「妙喜菴」の刻印が押されています。柱も溜塗で、それぞれ板の四隅に立てられ、下方は外に少し反った形で、中国様式を留めています。点前にも使えますが、香炉を載せることが多い卓です。


妙喜庵卓


松の民俗

 わが国の文学において、最初に松が記述されたのが古事記とされています。『万葉集』巻第六には、「茂岡に神さびたちて栄えたる千代松の樹の歳の知らなく」とあり、絵画としては正倉院御物の「鳥毛立女図屏風」の背景が最古といわれています。また太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像も赤松で彫刻されています。このように日本人は古くから松と関わりを持ってきました。

 一般的に松というとアカマツとクロマツを指すことが多く、アカマツは樹皮が赤いことからこの名がつけられています。アカマツはクロマツに比べ葉がやや細く柔らかで、樹皮は薄く赤味を帯びていて、枝振りも穏やかです。そうしたことからクロマツの「雄松」に対し「雌松」と呼ばれています。

 松の語源はいろいろありますが、高島雄三郎氏によれば、神が天から降りるのを待つ木や祭木まつりぎが転じたもの、葉が二股になっていることから股がマツになったなどの説があります。松の美称には千代木(ちよき)・手向草(たむけぐさ)・翁草(おきなぐさ)・延喜草(えんぎぐさ)・色無草(いろなしぐさ)・百草(ももぐさ)・都草(みやこぐさ)・琴弾草(ことひきぐさ)・子日草(ねのひぐさ)等、まことに優美でゆかしいめでたい名称がつけられています。中国では髯翁(ぜんおう)・宗老(そうろう)・枯竜(こりゅう)・偃蓋山(えんがいさん)・木長官(もくちょうかん)・五大夫(ごたゆう)・木中仙(もくちゅうせん)・千歳材(せんざいざい)・歳寒枝(さいかんし)・十八公(じゅうはちこう)・不臣木(ふしんぼく)等の別称があります。

 松を表した言葉に「歳寒くして、然る後に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後るることを知る也」(『論語』子罕篇)とあり、気候が寒くなり他の木々はしぼむのに、松柏だけはしぼまない。そこから霜雪を凌ぎ、節操が堅い松の神髄と、危難を迎えても節義をたもつ君子の気魄を讃えたもので、中国人は常緑である松が人の心を裏切らない節操や長寿の徳を象徴していると見ています。なお「柏」は日本でいうところのカシワではなく、杜松(ねず)や児手柏(このてがしわ)のように枝葉に裏表のない木を指します。

 日本では、古来、松や杉・椎・榊等、一年中緑をたたえる樹木は常磐木(ときわぎ)として尊ばれ、特に松は神が降臨する時に宿る依代(よりしろ)や影向(ようごう)する樹木として崇敬されてきました。正月飾りのひとつである門松も、毎年正月に各家にやってくる来方神である歳徳神(としとくしん)・年神(としがみ)・正月様(しょうがつさま)・恵方神(えほうしん)・大歳神(だいさいしん)・年爺(としじいさん)等を迎えるための目印であり、神が降りる時に宿る依代です。そうしたことから元日から十五日(地域により7日)までを「松の内」といいます。奈良の春日大社の春日の神が梢に出現したとされる「影向松」は、例年12月17日、春日若宮おん祭で、一の鳥居を入ったところにある「影向松」の前で舞楽や猿楽・田楽等の芸能集団が諸芸能を一くさり奉納する「松ノ下式」が行われます。能舞台正面の鏡板に描かれている松(松羽目)は、この松に基づくとされています。なお、近年、この影向松は代替わりしています。また初雪の日に菅原道真がこの松に降りきて歌を詠むとされる北野天満宮の「影向松」も同様です。

 また平安時代の貴族たちが、正月初子(はつね)の日に山に出て小松を引いて持ち帰った「子日(ねのび)の松」の遊びは、常緑樹である松が不老長寿のシンボルで、松に触れることにより、その奥に秘めた生命力を摂取し、千代を祝った予祝儀礼でした。現在、正月に門口に立てる根引きの松は、依代としての松と子の日の小松の意味を兼ね備えたものと考えられます。

春日大社「影向松」

北野天満宮「影向松」

花乃舎唯念画「子日の松図」

根引きの松


茶の湯と松

 前項で述べたように、冬にも美しい葉をたたえて凛とした常磐木である松は、日本人にとってごく身近な神の宿る樹として崇められてきました。春日八郎の「お富さん」の「粋な黒塀(くろべい)見越(みこ)しの松に仇あだな姿の洗い髪…」とある「見越の松」は町家で通りに面して塀ぎわに植える松のことです。同様に茶の湯においても露地に松を植えることが古くから行われてきました。堀口捨巳によると、袖摺松はもとからあった木が道に当たって、自然に袖を摺るものとなり、その面白さのためにのちにはわざと植えるようになり、そして露地を造る時に一定の役割をもって配置される「役木(やくぎ)」とされるようになったとあります。『織部聞書』に、


  袖摺ノ松之事、内路次ニコレナクテハ叶ハザル也 

  (中略)

  袖ノ当ル通リニ、枝ノコレアルハ悪シ、石段ヘ一枝ナト掛タルハ苦シカラズ、 多ク枝

ノ掛リ侯様ニ植事、コレアルベカラズ、石段ヘ枝掛ケザル様ニ植事尤モ吉、人ノ頭ノ上

ニ枝付タルハヨカラザル也、頭ノ当ラザル程ニ植エルベシ、枝茂ラズ、サヒタルヲ植エ

ルベシ


とあり、織部は袖摺松を内露地の役木としてはなくてはならないものとし、露地を歩く時に本当に枝が着物の袖に当たるのは悪く、一枝くらいは良いが、石段に枝が掛からないように植えるのが良いとし、頭に当たらないほどの高さで、あまり枝を茂らさず寂びた様がいいとしています。中村昌生は袖摺りの松は織部がいいだしたのではないかとされています。

 また茶の湯では冬期に露地に松葉を敷きつめる敷松葉があります。武者小路千家9代好々斎の『官休録』に、


  露次ニ松葉敷起リハ、初冬ノ頃、自然ニチリ落タル風情ノ面白カリシ故、掃捨ル事ヲ惜

ミテ残シ置タル也、其後寒気モ段々強、庭モ凍テ有故、庭毎ニ鋪ヤウニ成来リタレハ

也、全体松ノ根ノ辺斗敷筈成共、右ニ云如ク庭ノ凍ヌ為メ旁ナレハ、凍強キ方ヨリ鋪

初、極寒ニハ庭一面ニ敷也、手水鉢ノ辺ハ勝レテ凍強キ故ニ早ク敷也、数寄屋前抔ハ火

気ニテサナカラ凍薄キ物故、遅ク鋪テヨシ


敷松葉の起源は、初冬の頃に自然に松葉が散り落ちた風情が面白いということから、掃き捨てるのを惜しんで残したことによると記しています。本来は松の木の根もと辺りに敷くはずですが、寒気で露地の苔が凍てついて傷むのを防ぐために、凍てつきの強い場所から敷きはじめ、極寒の時分には露地一面に敷きます。特に蹲踞の辺りは凍てつきが強いので早めに敷き、茶室の近くは炉に火を入れるので比較的凍てつきが弱いことから遅めに敷きます。このことから敷松葉は、松の植えられた露地でのみなされるのが本義です。そして敷き始める時期ですが、


  但、他流ニテハ開炉ノシルシニ敷ト云説有トモ、当流ニテハ本文少入意味故、タダ松葉

ノチル落頃ヨリ敷初ル也、春ニ成、暖気催シニ随、追々揚ルコト、鋪時ノ順トハ逆ナ

リ、尤風炉ニ不移前ニ不残揚ル


他流では開炉のしるしとして敷くとの説があったようですが、武者小路千家ではただ単に松葉が散り落ちる頃から敷き始めます。春を迎え徐々に暖気が増してくるに従い揚げてゆき、風炉に移る前には完全に揚げてしまいます。これは敷く時の逆です。また、松葉の敷き方は、


松葉敷様、路次ノ奥ヨリ敷、寒気暮ニ随ヒ追々ニ口ノ方迠敷、大体□如斯少々通しも有

之候へ共、書紀[記カ]シ難ク[欠字カ]ニ委敷可申処、揚ルニハ春ニ至リ不残上ル、寒気

ノ時ハ奥ノ方残ス也


露地の奥から敷き始め、寒気がつのるに従い徐々に露地口の方まで敷き、最終的に露地全面に敷き詰めます。そして春になるとすべて揚げますが、いつまでも寒気が残る時は露地の奥の方は残すと記しています。

 松は特に香りの良さと飴色で美しい杢目を持つことから、直斎の妙喜庵卓や松之木盆、他にも直斎好みの橋立松大・中棗、橋立茶桶、一啜斎の老松大棗、一指斎の三友棚等のように茶道具にも用いられてきました。また、松は耐久性や耐水性に優れ、建築用材や土木用材として使用されてきました。棟木をはじめ母屋(もや)・小屋束(こやづか)・柱・梁(はり)・桁(けた)・垂木(たるき)・筋違(すじかい)等、杢目は床板や式台等に、柾目は柱や長押(なげし)・鴨居(かもい)・縁甲板(えんこいた)等に用いられています。特に松の老木の根に近い部分からとれる脂の多い材を肥松(こえまつ)と呼び、摩擦による減りが少ないことから敷居として好んで使われています。肥松は銘木として珍重され、気品と格調が高く木の王者ともいわれています。武者小路千家の半宝庵の床とこ地板にも松が使われ、桂離宮の書院の柱材や内法材等も松材です。

 さらに茶室の床柱には、皮付きの松がしばしば使われています。茶室の床はその席の主人公というべき掛軸が掛けられる場で、本来、仏画や名号、神号が祀られる神聖な空間でした。その空間に松が立てられるのは、これまで見てきたように神が宿る依代や影向する聖なる木であることから特に選ばれ、好んで使われてきたと考えられます。露地に松が好んで植えられるのも同様の思いが根底にあると思われます。茶の湯の草創期の茶人たちは、こうした古来から日本人が持つ松に対する精神性を踏まえた上で、茶の湯の場に松を採り入れてきたのではなかろうかと考えます。


見越の松




官休録


敷松葉

碌々斎・又玅斎・一指斎好 三友棚


直斎好 橋立茶桶



肥松



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