茶湯とハ心をそめて
めをとめて
耳をそはめて
聞事も
なし
此文のはしニ
書き遣ける
とかや
一笑々
火中〵〳
武者小路千家5代 文叔宗守の 筆になる宗旦の狂歌です。
下題には、
宗旦居士狂歌
文叔宗守書
息子で武者小路千家6代真伯が認め、同じく真伯が、
宗旦居士之狂歌
文叔宗守書 宗守(花押)
と箱書しています。また箱の甲には8代一啜斎が、
文叔元伯うつし
箱真伯筆也
と書付しています。
茶の湯というのは禅でいうところの「教外別伝 不立文字」と同じで、文字や言葉を通してではなく、修行を積んで心から心へ伝えるもの。見たり聞いたり言葉や文字では表すことのできないものだとの教えを詠んだ歌です。まことに意味深いものです。
文叔が「文のはしニ書き遣けるとかや」と記しているように、宗旦が手紙の端に書いた歌であることがわかります。そして「一笑々々 火中々々」というくだりにこの歌を書いた文叔の深い思いが表れています。なお、同様の意味の歌が「利休百首」にもあります。
茶の湯とは心に伝え目に伝え
耳に伝えて一筆もなし
この軸も『目利きー谷松屋八代戸田露吟覚書』を通じてご縁のあった方が、自分は使うことがないので是非とも活かして欲しいと言うことで私の元にやってきた軸です。今回の上梓がなければ直接ご縁のなかった方です。多分、この軸も永遠に私の手元にはやってこなかったでしょう。なお、どのような縁でその方の先祖がこの軸を入手したかは不明です。流儀も異なることから何十年も使われることなくお蔵入りだったそうです。本当に縁というものは不思議なものです!
常々私は茶道具に限らず、道具というものは使ってなんぼという考えでいます。茶道具は茶会や稽古で人に見てもらい、使ってもらうことがそのものの本分です。いくら立派な箱に納まっていても使われなければ棺桶に入れられているのと同じだと思います。ところが箱から出して人に使われると手足が生えて踊り出す。道具というものはそうしたものだと考えています。この軸も使って欲しい!多くの人に見てもらいたい!そんな思いが持ち主を動かしたのに違いありません。
近いうちに茶会で使って多くの人に見てもらい日の目を見るようにするつもりです。きっと見事に踊ってくれることだと思います。
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