• 木津宗詮

初代松斎宗詮10  一啜斎

最終更新: 2019年10月5日

松斎が師事した一啜斎は、宝暦十三年(一七六三)に、禁裏の地下(じげ)官人川越(かわごえ)家六代教賢(のりかた)の息子として生まれている。はじめは勝次郎、のちに以孝・方昌・宗守と名を改めている。また、休翁・円明(えんめい)・渓澗(けいかん)・半宝庵(はんぽうあん)・披雲庵(ひうんあん)等と号している。なお、川越家は、兵庫寮(ひょうごりょう)の官職を世襲する地下(じげ)家であるとともに、神宮神嘗祭例幣使(かんなめさいれいへいし)の王代(おうだい)を代々勤めてきた家である。

 天明二年(一七八二)二十歳の時、七代直斎(じきさい)の没により六月に家督を相続し宗守と名を改めている。六代真伯(しんぱく)の門人安田是誰(ぜすい)らの支えが多分にあった。二十六歳の時、応仁の乱以来の被害を及ぼした天明の大火に家元が炎上し、苦心の末に官休庵はじめ直斎好みの弘道庵(こうどうあん)・一方庵(いっぽうあん)等を再建している。のちに一方庵を大坂の社中平瀬家五代士瀾(しらん)に譲り、新たに四畳半枡床の席半宝庵(はんぽうあん)を建てている。松平候の参勤の伴をして度々江戸に下りその功を認められ、一翁時代の扶持を与えられている。

 一啜斎は男子には恵まれず、文政二年(一八一九)に末娘宗栄(そうえい)(智昌(ちしょう))の婿として好々斎(こうこうさい)を迎えている。好々斎は裏千家九代不見斎(ふけんさい)の三男で同家十代認得斎(にんとくさい)と石牛斎(せきぎゅうさい)の二人の兄がいた。同六年(一八二三)二月、一啜斎は、還暦を機に隠居して好々斎に家元の座を譲っている。その後も好々斎の襲名茶事をはじめ、一翁の百五十年忌法要・追善茶事、直斎の五十年忌法要・追善茶事等、隠居の身として好々斎を支えている。

 ところが天保六年(一八三五)七月、好々斎が四十一歳で没するという不幸に見舞われ、その後、武者小路千家は好々斎の後継者として新たに表千家から以心斎(いしんさい)を迎えている。好々斎の死により、最晩年の一啜斎の心境はいかばかりであったか。その後一啜斎は、天保九年(一八三八)四月十六日に七十六歳で没している。なお、生前の一啜斎は、それまでにない趣の壷々棚(つぼつぼだな)や自在棚(じざいだな)・烏帽子棚(えぼしだな)など多くの道具を好み、手造りの茶碗や自作の茶杓を多数残している。門下として松斎はじめ平瀬士瀾・岩国藩茶頭奥谷宗悦(そうえつ)・北風荘右衛門(そうえもん)等がいる。



26回の閲覧

最新記事

すべて表示

2代得浅斎宗詮3 一指斎の後見

得浅斎は、松斎の茶の湯を義母の柳とともに支えた。武者小路千家は此中斎の離縁により、急遽新たに後継者を迎える必要に迫られた。「登士録」に、嘉永5年(1852)3月22日に表千家の吸江斎の息子で、以心斎の甥にあたる辰之助、のちの一指斎が再養子として入家している。辰之助が5歳の時のことであった。「松平家譜」には、同5年4月19日に、「茶道格別之家筋」ということから、未だ幼年ではあるが、十人扶持を支給され

2代得浅斎宗詮2 茶の湯修行

家元への入門並びに許状の台帳によると、得浅斎は天保6年(1835)、14歳の時に武者小路千家九代好々斎に入門している。なお、好々斎はその10日後に41歳で没しているので、好々斎に直接茶の湯の指導を受けることができなかったと思われる。いずれにしろ好々斎の最後の弟子の一人であったといえる。 同10年(1839)3月に小習六ヶ条と、唐物点・茶桶箱、同年10月には台天目と盆点・乱飾、そして流儀の最奥義であ

​お問合せ

一般財団法人卜深庵

  • Grey Twitter Icon
  • Grey Instagram Icon
  • Grey Facebook Icon

© 一般財団法人 卜深庵 All Rights Reserved.