松斎が師事した一啜斎は、宝暦十三年(一七六三)に、禁裏の地下(じげ)官人川越(かわごえ)家六代教賢(のりかた)の息子として生まれている。はじめは勝次郎、のちに以孝・方昌・宗守と名を改めている。また、休翁・円明(えんめい)・渓澗(けいかん)・半宝庵(はんぽうあん)・披雲庵(ひうんあん)等と号している。なお、川越家は、兵庫寮(ひょうごりょう)の官職を世襲する地下(じげ)家であるとともに、神宮神嘗祭例幣使(かんなめさいれいへいし)の王代(おうだい)を代々勤めてきた家である。
天明二年(一七八二)二十歳の時、七代直斎(じきさい)の没により六月に家督を相続し宗守と名を改めている。六代真伯(しんぱく)の門人安田是誰(ぜすい)らの支えが多分にあった。二十六歳の時、応仁の乱以来の被害を及ぼした天明の大火に家元が炎上し、苦心の末に官休庵はじめ直斎好みの弘道庵(こうどうあん)・一方庵(いっぽうあん)等を再建している。のちに一方庵を大坂の社中平瀬家五代士瀾(しらん)に譲り、新たに四畳半枡床の席半宝庵(はんぽうあん)を建てている。松平候の参勤の伴をして度々江戸に下りその功を認められ、一翁時代の扶持を与えられている。
一啜斎は男子には恵まれず、文政二年(一八一九)に末娘宗栄(そうえい)(智昌(ちしょう))の婿として好々斎(こうこうさい)を迎えている。好々斎は裏千家九代不見斎(ふけんさい)の三男で同家十代認得斎(にんとくさい)と石牛斎(せきぎゅうさい)の二人の兄がいた。同六年(一八二三)二月、一啜斎は、還暦を機に隠居して好々斎に家元の座を譲っている。その後も好々斎の襲名茶事をはじめ、一翁の百五十年忌法要・追善茶事、直斎の五十年忌法要・追善茶事等、隠居の身として好々斎を支えている。
ところが天保六年(一八三五)七月、好々斎が四十一歳で没するという不幸に見舞われ、その後、武者小路千家は好々斎の後継者として新たに表千家から以心斎(いしんさい)を迎えている。好々斎の死により、最晩年の一啜斎の心境はいかばかりであったか。その後一啜斎は、天保九年(一八三八)四月十六日に七十六歳で没している。なお、生前の一啜斎は、それまでにない趣の壷々棚(つぼつぼだな)や自在棚(じざいだな)・烏帽子棚(えぼしだな)など多くの道具を好み、手造りの茶碗や自作の茶杓を多数残している。門下として松斎はじめ平瀬士瀾・岩国藩茶頭奥谷宗悦(そうえつ)・北風荘右衛門(そうえもん)等がいる。
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