天正18(1590)年、豊臣秀吉が行った小田原攻めに従軍した利休が、伊豆韮山(にらやま)の竹で作った一重切花入が「園城寺」です。凱旋した利休が息子の少庵に贈ったとされています。竹花入の嚆矢とされています。
印象的な正面の縦に入る大きな割れ目が景色となっています。割れ目の縦の線と、竹の節の交差する様子を計算して竹を切り取ったのでしょう。この割れ目が滋賀県の園城寺の割れ鐘の傷に見たてて、少庵が「園城寺」と銘をつけ、花入の裏に銘と少庵の名が刻まれています。
園城寺花入と武者小路千家との後日談があります。
のちに園城寺花入は千家から出て松平不昧公の所蔵となりました。そして現在、東京国立博物館の所蔵となっています。文化元年(1804)4月26日に不昧公は武者小路千家八代一啜斎を招いて正午の茶事で園城寺花入を用いています。千家の家元で不昧公の茶事に招かれているのは一啜斎ただ一人です。また不昧公は一啜斎の手作りの茶碗を何度も茶事で使っています。『松平不昧傳』には、「三千家の中にて宗守流の最も公の意に適ひたる」とあり、一啜斎は不昧公から一目置かれる家元として交流がありました。
そして同書には「将来郷里に帰りて身を立つる上に、遠く慮れる、懇情にも由る」とあり、松斎が将来大坂に帰って身を立てることを慮って松斎を一啜斎に推挙しました。そして松斎は、江戸在府中の一啜斎に入門しています。その後、松斎は不昧公筆で好みの表具になる「寒松一色千年別」の墨跡をいただき、生まれ故郷の大坂に帰り、武者小路千家の茶家を立てました。なお、松斎も不昧公の大崎下屋敷での茶事に招かれています。そうしたことから園城寺花入は一啜斎と縁の深い花入でもあり、周り回ってわが家が武者小路千家の茶家になるきっかけでもあったのです。
この鐘は平安時代に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神から授けられた鐘を園城寺(三井寺)に寄進したものとされています。その後、山門(延暦寺)との争いで武蔵坊弁慶が奪い、比叡山へ引き摺り上げました。そして撞いてみると ”イノー・イノー”(帰りたい・帰りたい)と響きました。弁慶はそんなに三井寺に帰りたいのならと怒って鐘を谷底へ投げ捨てました。 鐘にはその時の傷痕や破目などが残ったと伝えられています。
現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に安置されています。
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