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執筆者の写真木津宗詮

大文字

更新日:2019年9月16日

 幕末から明治にかけて活躍した大阪の長谷川貞信の 「都名所之内」如意嶽大文字の図です。  京都五山送り火連合会のホームペジによりますと、「五山の送り火」は東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られ、ほかに松ヶ崎西山・東山の「妙・法」、西賀茂船山の「船形」、金閣寺付近大北山(大文字山)の「左大文字」及び嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の五つを指します。かっては「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)なども点火されていましたが、早く途絶えたといわれています。一般的に送り火そのものは、盆の翌日に行われる仏教的行事です。再び冥府(冥府・死後の世界)に帰る精霊を送るという意味をもつ盆行事の一形態で、この行事が一般に広く行われるようになったのは、仏教が庶民の間に深く浸透した中世室町時代以降であるといわれています。 五山のそれぞれの山にそれぞれの歴史が伝えられていますが、その起源には平安初期、室町中期、江戸初期ではないかと、さまざまな俗説がありますが、どれ一つとして明らかな説はなく、確かな記録も残されていません。 東山三十六峰のひとつ如意ヶ嶽の手前の火床がある西側の前峰を大文字山とよびます。大の字の中央には大師堂と呼ばれる弘法大師を祀った小さなお堂があります。火床は、古くは杭を立て松明を掲げたものだそうですが、昭和44年(1969)以降は細長い大谷石を二つ並べた火床の上に井桁に薪を組むかたちとなっています。  なお、特に日清戦争戦勝時には「祝平和」の文字が灯され、日露戦争でも点火されたこともあったそうです。また第二次世界大戦中である昭和18年(1943)には灯火管制により送り火が一時中止されましたが、代わりに早朝に白いシャツを着た地元の第三錦林小学校の児童らが山に登り、人文字で「大」を描き、英霊にラジオ体操を奉納したそうです。翌年にも錦林小学校、第二 - 第四錦林小学校児童が人文字を描いています。そして終戦の年である昭和20年(1946)に再開されて今日にいたっています。

 「大」の文字については諸説ありますが、そのなかの一つに、六波羅蜜寺で毎年8月8日から10日に祖霊を迎え入れるための行事である萬燈会の灯明があります。本堂に108組の丸い土器に「大」の字に灯心を並べて灯します。本尊前にも大の字型の棚を置き、その上に灯された土器をのせます。寺によると萬燈会の始まりは応和3年(963)年の夏で、「大」は「地・水・火・風」の四元素に空を加えて大自然を表した「五大」を意味し、自然への畏敬と祖先をうやまう気持ちを象徴しているとのことです。この「大」の意味が次第に民衆の間に浸透し、送り火の大のもとになったとのことです。  長谷川貞信の如意嶽大文字の図は鴨川から大文字を望んだ図です。手前に吉田山が描かれ、田んぼの中の道で多くの人が眺めています。わたしの家は吉田山の中腹にあり特に親しみを感じます。数年前まで「大文字」をのぞきすべての送り火が2階から見ることができました。ところが数年前に京大の新しい校舎ができたために「左大文字」と「妙法」「鳥居形」しか見えなくなりとても残念です。




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