心の眼

 武者小路千家十代以心斎の筆になる宝尽しの図です。右上に力強く描かれているのは打出の小槌、その下左は宝珠、中央のものは不明。左に大きく「守 書」と署名し、紙面の幅いっぱいに花押が認められています。

 大徳寺435世黄梅院大綱宗彦の『空華室日記』に、以心斎が天保8年(1837)5月、痘瘡(とうそう)・天然痘に罹ったことが記されています。その後、以心斎は不幸にして失明しました。痘瘡は天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、感染すると高熱を発し、悪寒、頭痛、腰痛を伴い、全身に水泡の中に膿みがたまる発疹ができる症状で知られます。現在は一部の研究機関を除き、自然界では根絶したと宣言されています。当時は不治の病と恐れられ、非常に強い感染力で、幼少の子どもたちが多く罹患し、死亡率も高かったようです。仮に一命を取り留めてもあばたが残り、ひどい場合は失明したり、四肢の末端に障害を帯びたりするなどの後遺症が出ました。伊達政宗が幼少時に右目を失明したのも、痘瘡が原因と伝えられます。


 天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われいます。日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられています。そのころ新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られました。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されています。  天平7年(735)から天平10年(738)にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去しました。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡し、政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥りました。この時の天然痘は、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説ですが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されています。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行でした