小田原従軍
宗易の桐箪笥は、小田原御陣の時、持参申されし作也
と、『南方録』にある。「小田原御陣」とは、天正18年(1890)三月に豊臣秀吉が小田原の北条氏(後北条氏)を武力攻撃するために、京都聚楽第)じゅらくだい)から大軍を率いて東国に出陣したいわゆる「小田原征伐(小田原の役)」のことである。秀吉は箱根湯本の早雲寺に陣を張り、北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子を小田原城を完全に孤立させる長陣の作戦で臨んだ。この時、利休も秀吉に従ってその陣中にいた。
箪笥とは、中に棚がありそこに茶道具を入れ、蓋のついた持ち運びのできる木製の箱のことである。このとき利休は「桐箪笥」、すなわち後世利休好みとされる桐木地旅箪笥を持参したのである。持参とあることから、あらかじめ京都の職人に作らせたものを小田原に持っていったのであろう。なお小田原従軍のおりに利休は伊豆の韮山(にらやま)で竹を切り出し、その竹で花入を作っている。一重切「園城寺(おんじょうじ)」と「音曲」、逆竹寸切「尺八」、二重切「よなが」も作ったとされている。「尺八」は秀吉に献上し、「音曲」は織部に送り、「園城寺」を少庵への土産にし、「よなが」は利休自らが所持し、『利休百会記』天正十九年一月の会に「よなが」の名がみえる。また、この従軍にあたり、利休の後妻宗恩(そうおん)が帛紗を仕立てて薬を包み、その寸法がとても良いということで利休が点前帛紗に採用したとされている。利休にとって小田原従軍は大変大きな意味のある出来事であった。
旅箪笥
利休好みとされる旅箪笥は、総桐木地のまことにシンプルなもので、内部は大小二枚の棚板が二段になり、上棚の板は左方に柄杓をかける切れ込みがあり、中棚は上棚に比べやや浅い板となっている。地板手前に内側左右いっぱいに溝があり、上から戸をはめこむ倹飩(けんどん)式の前戸。前戸の上中央に落とし込みの金具がついている。そして棚外側両方に持ち手の桟がついている。寸法は高さ1尺4寸8分(44・8センチ)、幅1尺1寸4分(34・5センチ)、板厚さ3分(0・9センチ)、奥行き9寸(27センチ)となっている。のちに利休好みの旅箪笥をもとに裏千家4代仙叟や片桐石州等の好みがある。
また、武者小路千家7代直斎の好みに、同様の倹飩式の前戸に裏梅の金具が付けられ、中棚のみで全体が青漆、または桐木地の梅棚がある。
直斎好 梅棚
ちなみに箪笥の淵源について『南方録』には、
箪笥は、銭屋宗納、唐の組物のたんす所持、これ名物也、茶たんすに用ひて、常住の座敷炉辺に置合たてられし也、前に錠かまへありて、茶を立る時かぎにてひらき、仕廻の時、又錠をおとされしと也、其後宗及・宗久なども、ぬりものゝからのたんす、右同前に用ひ申さるゝ也
とある。銭屋宗納(ぜにやそうのう)が唐物の組物の箪笥を所持していた。これは「提籃(ていらん)」、あるいは「器局(ききょく)」のことであろう。外形は長方形で、内部に棚が二段に組まれ、正面に錠前(じょうまえ)をつけることができる蓋、上部に取っ手が付いて持ち運びが出来る形状の箱である。提籃は手が付いた野外専用で、器局は室内専用の道具である。紫檀(したん)や黒檀(こくたん)、漆器や螺鈿(らでん)が施された物、篭製のものがある。銭屋宗納は唐物篭製の提籃、または器局を所持していたと思われる。その後、津田宗及、今井宗久なども唐物の塗りの箪笥を用いた。なお、これらは風光明媚な場所で茶を喫し、漢詩を詠んだり絵を描くという文人趣味から煎茶道具として寵愛されている。
器局
提籃
旅箪笥の点前
現行の武者小路千家の旅箪笥の点前は以下の通りである。薄茶の場合、初飾ははじめに中棚に茶器を置き前戸を閉めるその扱いは三通りある。まず第一に茶碗を持ち出して点前座に座って常の通りに仮置きをし、前戸の金具をはずし勝手付きに立てかけ、水指を少し手前に出し、茶器と茶碗を置き合わせて点前をする。第二に茶碗を持ち出し、前戸を開けて茶器と茶碗を置き合わせ、総礼ののち左手で建水を進め、その手で中棚をはずしてそのまま上棚に指一本分残して重ねる方法である。第三に水指も手前に出さず、中棚も上棚に重ねずそのまま通常の点前を行い、水指の蓋を開ける前に中棚を右手で抜き、左手に持ち替えて勝手付に立てかけた前戸と棚との間に立てかける法の三通りである。
水指を少し手前に出し、茶器と茶碗を置き合わせる
総礼ののち建水を進め、その手で中棚をはずしてそのまま上棚に指一本分残して重ねる
水指の蓋を開ける前に中棚を右手で抜き、左手に持ち替えて勝手付に立てかけた前戸と棚との間に立てかける
初飾りは中棚中央に茶器、地板に水指を飾る。次飾は柄杓を上棚左の切り込みに左手で柄杓をかけ、蓋置を柄杓の正面地板の上に置く。総餝は中棚に茶器と茶碗を飾り、柄杓と蓋置は次飾と同じである。炭点前は羽箒を右斜め、香合を左手前に入飾にする。
初飾
次飾
総飾
濃茶のときはあらかじめ席入り前に水指を手前に出し、その前に茶入を置きつける。点前にあたっては茶碗を仮置きをし、茶入と置き合わせて通常の点前を行う。なお、箪笥の
濃茶
天板に小さな花入に花を飾る
野点
武者小路千家8代一啜斎いっとつさいの考案になる旅箪笥野点の点前がある。長らく流儀では行われていなかった点前で、木津家と一部の家に伝わった点前である。一啜斎はこの野点の点前に限らず、茶桶箱ではそれまでの利休形をより手際の良い法として改良した一啜斎形や烏帽子(えぼし)棚における烏帽子折りなどの新たな点前を考案し、それらは今日も武者小路千家では重宝に行われている。また烏帽子棚や自在(じざい)棚などの流儀独特の好み物や墨跡、自作になる茶杓や花入等の道具も多く残している。そうしたことから一啜斎は流儀歴代の中でも特筆すべき家元の一人である。
他流においても旅箪笥による野点(芝点・しばだて)の点前が行われているようである。それは中棚を抜き、その上に茶器と茶筅をのせて行う点前である。それに対して一啜斎形の点前はまことに合理的な点前である。あらかじめ総飾同様に茶器と茶杓と茶筅、茶巾を仕組んだ茶碗を中棚に置き、柄杓を上板の切り込みにかけ、蓋置をその前に置いてて前戸をしめておく。点前は建水のみを持って出て、上棚の板を抜いて棚の前点前畳に置き、その上に茶器と茶碗を置き合わせ、清めた茶器と茶筅もその上に置く。中棚を抜いて膝前に置き、その上で茶器と茶杓を清め茶筅通しや点茶、お仕廻を行う。茶が点った茶碗や茶器と茶杓の拝見物は炉畳に出される。茶筅すすぎをしたのち茶碗を茶巾で拭い、茶巾を建水の上で絞って畳み直し茶碗のなかに入れ茶筅を仕組む。水指に水を注ぐときは棚正面の板の上に出して水を注ぎ、天板を箪笥の中に戻し、はじめの通り柄杓を切り込みにかけ蓋置を柄杓の柄の正面に置く。拝見が終わると茶杓を茶碗に仕組み、茶器を茶碗の横に最初のように並べ前戸を閉める。
一啜斎形は茶の点った茶碗と拝見の両器、蓋置だけが炉畳に置かれ、点前はすべて板の上で行われる。野点のおりには常に清浄な畳の上で行われるとは限らない。清浄な棚板の上で行われるということに大きな意味がある。また女子も手をついて回らないのは毛氈などの敷物がずれないようにとの配慮による。茶碗を拭い茶巾を絞って畳み直すのは客からの茶の所望をいつでも受けることができるようにしている。もともとは四畳半などの茶席の中で野点の風情を持ち込むために考案された点前と考えられるが、実際、野外で点茶を行うことも十分に考慮された点前である。一啜斎形の野点点前は、十分に清められた茶室の畳でなくとも、すべて清浄な板の上で茶を点てるということで精神性も含めまことに合理的な点前であるといえる。
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