梵魚寺

梵魚寺は、新羅時代に創建された韓国の古刹です。寺のある金井山にとても大きい石があり、その石の上に大きくいつも水で満たされた黄金色の井戸があったそうです。そしてその井戸に一匹の魚が五色雲に乗って空から降りてきて井戸の中で遊んだことから、空の国の魚という意味を込めて、梵魚寺という寺名になったそうです。

豊臣秀吉の文禄の役で梵魚寺は焼失し、のちに再建されたものが今日の建物だそうです。特に「一柱門」と呼ばれる山門が他の寺院と違って独特なものです。一柱門の中央には「曹渓門」、左右にそれぞれ「金井山梵魚寺」と「禅刹大本山」と書かれた額が掲げられています。

明治45年(1912)に聿斎が迫間房太郎の釜山東莱別邸の設計で渡韓した折に梵魚寺を訪れています。その時梵魚寺の古印を押してもらい住職が「梵魚寺古印」と認めたものを軸装したものが伝わっています。季節は決まっていませんがしばしば稽古でかけられる軸です。また、聿斎は同寺で古い大きな木鉢を譲られています。その縁には「長江梵魚寺」と書かれていて、同寺の什器であったもののようです。以前、伏見の御香宮神社の月釜で聿斎が携え帰った道具組で茶席を担当した時に煙草盆として使いました。



平成20年(2008)に社中5名と家族で同寺に訪れ、家族以外の者6名がテンプルステイを体験しました。修行僧とまったく同じ日課で、9時就寝ですが、みんななかなか眠れず、持参の茶箱で盆点前で小茶会を催しました。月明かりが煌々と照らし、虫の音を聞きつつ涼風の吹く中でのまことに趣のある茶会でした。とても懐かしい思い出です。翌朝は3時に起床し、朝課、坐禅、その後、住職がわたしたちのために居室で茶礼をしてくださいました。この軸はその時に住職が認めてくれたものです。


戊子 釜山梵魚寺住持正如(花押・印)

  茶禅一如


梵魚寺は聿斎にとってとても思いの深い寺だったと思います。そしてわたしにとっても格別思い出深い寺でもあります。


明治時代の開港当時の山門


日韓併合後大正時代の山門


現在の門です。

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得浅斎は治宝の信任が厚く寺社奉行や勘定奉行等の要職を歴任し、紀州藩の藩政改革を推進し、藩内の尊皇論を主導した伊達千広(だてちひろ)・宗広(むねひろ)と親交を結んでいた。なお、宗広は治宝没後、その側近が一斉に粛正された時、田辺(和歌山県田辺市)に10年近く幽閉され、のち脱藩して尊皇運動に参加している。その千広の六男が坂本龍馬の海援隊の一員で勤皇の志士であった睦奥宗光(むつむねみつ)である。ちなみに陸

得浅斎も松斎同様紀州家に仕官している。その時期の詳細は不明であるが、『高松侯上使日記』の嘉永7年(1854)1月二25日に「宗隆主人屋敷ニ出勤」とあり、どのような役職に就いていたかはわからないが、この時点で確かに紀州家に仕えていたことがわかる。 文久3年(1863)秋に写された『文久元紀士鑑』に、「五人扶持、木津宗隆、大坂住御用勤」とあり、大坂在住で御仕入方(おしいれかた)の御用を勤めていた。また