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執筆者の写真木津宗詮

『茗會録』

『茗會録』は、直斎門人で娘婿でもあった樋口道立が、安永4年(1775)12月12日の安田是誰の会を皮切りに49回にわたり記した自他会記で、写真は天明2年(1782)の直斎の口切の記録です。客が是誰と道立、4代中村宗哲、花入を「花注」、水指を「水注」、茶入を「茶注」、茶碗を「茶盞」とわざわざ煎茶風に表記しています。

是誰が安永4年に催した茶事の会記を、直斎の娘婿樋口道立が「茗茶録」に記録しています。




安永四乙未十月十二日風炉余波午時

 安田是誰亭茶記 かこゐ一畳大目向切

  客 阮道立、馬嶋春成、野瀬方雅

掛物 佐々木志津磨書、寂蓮秋夕之歌一首

釜  あしや ふとん形 

    風炉 宗全眉風呂

香合 呉洲丸香合

花入 竹 尺八 一翁作銘龍根

   花 菊

水指 伊賀 ナマシメ

茶入 瀬戸 耳付

        袋 唐鈍子 

茶碗 黒楽 自作 今鈍太郎ト書 直斎判アリ

茶匕 空中作

 料理 角折敷 面桶椀

菜モリ

向  鱧 セントウニ  汁  菜

ヱモノ 茄子

取肴 塩引 朝鮮海苔

くわし

置くわし 松葉

薄茶器 棗

 右老人七十四歳 花庭中之秋菊五種

         小菊、中菊を□□へ甚だ清雅




安永4年(1775)10月12日に是誰が催したの正午の茶事です。通常、旧暦10月から炉に改まりますが、「風炉余波」とあることから風炉の時期は終わったものの、その名残ということで敢て風炉の茶事であったことが判ります。是誰の自宅の囲いは一畳台目の極小の茶室で、客の阮道立は樋口道立のことです。連客の馬嶋春成と野瀬方雅については不明ですが、道立としばしば茶事に赴き、また互いに招きあうという極く親しい間柄でした。掛物の「寂蓮秋夕之歌」は、三夕の歌の一つとして有名な「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮(新古361)」ではないかと思われます。歌意は、なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだったという心境を詠んだ和歌で、まことに寂しくわびた趣の和歌です。また筆者佐々木志津磨は、書博士で藤木流の創始者藤木敦直の門人で、志津磨流を新たに創始した京都の書家です。大徳寺の和尚や家元、茶人でない人の書を掛けているのはまことに異色です。花入が一翁作の竹尺八で、銘が龍根であることから、根竹の部分を用いた花入、水指の伊賀の「ナマシメ」、いずれもわびた趣のわびたものであったと考えられます。茶碗の是誰自作になる黒楽は直斎により「今鈍太郎」命銘され直斎の花押、漆書きが認められたものです。鈍太郎の本歌は『新版茶道大辞典』によると、「表千家6代覚々斎の手造り黒茶碗。大鉄鉢形。亀甲形の切篦が全体にわたり、高台は極めて小さい。口縁から裾に大火割れが通り、高台部分に漆繕いがある」茶碗で、是誰の手造の黒楽茶碗も本歌鈍太郎に趣の似通った作であったことから「今鈍太郎」と銘が付けられた思われます。察するにわびの趣の深い茶碗であったと思われます。なお、自身の茶事で自作の茶碗を用いているのは相当の見識の表れであり、また直斎が銘を付け花押を書いているのは、是誰に対して直斎が敬意を表するとともに、一目も二目も置いていたことが伺われます。懐石は旬の食材で特別なものを用いていません。焼物と吸物のない一汁二菜取肴二種で、直斎時代の一汁三菜に吸物と取肴二種、さらに肴一種加えた献立から比較するとわびた内容のものです。全体にわびた趣向の道具組の中に、清雅に秋菊五種が入れられていたのは、道立にとってこの対照的な風情、わびと雅が同居して何の違和感もなかったことに感じ入ったことから特筆されたのでしょう。最後に「右老人七十四歳」とわざわざ年齢を記しているのは、当時の74歳といえば相当な老人であり珍しい存在であるというばかりでなく、この年齢で永年の茶の湯の修行・鍛錬を積んだ茶人の境涯がこのような極わびの茶事を催おさせたのだとの思いから、敢て年齢を記録したのでしょう。なお、「茗茶録」には、他に天明2年(1782)の直斎の口切稽古茶事が記録されています。是誰と道立、中村なる人物が招かれています。そこにも「是誰年齢八十二歳」とわざわざ明記しています。ここにもわび茶を極めた是誰に対する道立の尊敬の念を感じることが感じられます。

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