寺伝によると願泉寺は、小野妹子の八男多嘉麿義持たかまろよしもちが、用明天皇二年(五八七)、崇仏派すうぶつはの蘇我馬子そがのうまこと廃仏派はいぶつはの物部守屋もののべのもりやの間に武力闘争が起きた際に戦功を立て、その恩賞として河内国日下くさかに田地を賜りその地に住したことに始まる。この戦いの後、聖徳太子が四天王を建立し、その材木を集積した港ということから「木津」の地名となった。義持はその木津の地に無量寿院の寺を建てその別当職に任じられ、日下くさかの姓を名乗ったとされている。
その後、願泉寺は天台宗となり、十七世浄教じょうきょうが本願寺の蓮如ついて浄土真宗に改宗した。願泉寺は応仁の乱による兵火で灰燼かいじんに帰し、永正四年(一五〇七)に堂宇を再建している。
三十世教龍きょうりゅうは、石山本願寺の証如しょうにょに仕え、三十一世定龍じょうりゅうは、石山本願寺に詰める定衆となり、石山合戦の折には多大な功績をあげている。その功を賞して准如じゅんにょは本願寺の「願」の字を許し、寺号を「願泉寺」と改め、「日下山願泉寺」と称し、石山合戦で焼失した伽藍を慶長二年(一五九七)に復興している。
定龍は茶の湯を嗜み、武野紹鷗じょうおうや千利休と交流した。伊達政宗だてまさむねとは特に親しく、元和元年(一六一五)大坂夏の陣のあと、正宗は帰国にあたり、滞陣中に建てられた書院(蔽芾へいひ堂)と茶室(泰慶たいけい堂)、庭石までも定龍に贈ったとされている。
その書院と茶室は昭和十二年(一九三七)に国宝に指定されるが、惜しくも昭和二十年(一九四五)に空襲で焼失してしまい、庭園のみ旧態を残して現存している。なお、昭和二十五年(一九五〇)に本堂が再建されて今日に至っている。
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