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執筆者の写真木津宗詮

七夕

澄子先代家元夫人筆になる短冊6枚です。

澄子夫人が何かの雑誌の仕事をされた時に竹につけた短冊で、その手伝いをしたときにいただいたものです。


二星たまゝゝあうて涼風

  颯々の声におどろく


天の川とほき渡るにあらねども

君が舟出そとしにこそまて

ひとゝせにひと夜


憶ひ得たり長く乞巧することを

竹竿頭上に願糸多し


としごとにあふとはすれど七夕の

たなばたのぬる夜の数そすくな


ひととせにひとよと思へど七夕の

あひ見む秋のかぎりなきかね



『和漢朗詠集』の秋「七夕(しちせき)」をもとにしています。

右から、小野美材(よしき・びざい)の『本朝文粋』の「七夕代牛女惜暁更詩序(七夕、牛女に代りて暁更を惜しむ詩序)」、

二星適逢未叙別緒依依之恨

五夜将明頻驚涼風颯颯之声

二星(じせい)たまたま逢ひて、いまだ別緒(べつしよ)の依々(いい)たる恨(うら)みを叙(の)べず

五夜(ごや)まさに明けなんとして、頻(しきり)に涼風(りやうふう)の颯々(さつさつ)たる声に驚く

恋人の二つの星が一年に一度だけ逢って、まだ去年別れてからのつらさを言い尽くす前に、夜明けの時刻となりました。初秋の朝の涼風がさわさわとしきりにそよぎ夜明けに驚きます。

次は『万葉集』巻十・秋雑歌、柿本人丸の和歌です。

あまの川とほきわたりにあらねども

君が舟出は年にこそ待て

決して天の川は遠い渡りではないのですが、あなた(牽牛・彦星)の船出は一年に一度だけ、わたしはこちらの岸辺で一年もの長い間待ち続けています。

次は、七夕お決まりのことば、

ひととせに一夜

一年に一度かぎり

続いて、白居易の「七夕』、

憶得少年長乞巧

竹竿頭上願糸多

憶(おも)ひ得たり少年の長く乞巧(きつかう)することを

竹竿(ちくかん)の頭上(とうしよう)に願糸(げんし)多し

七夕の夜に少年少女が竹竿の上の方に五色の願いの糸を掛け、学問や裁縫が上達するのを祈るのをみると、自分も少年時代に同じことをしたのを思い出します。

続いて、『古今和歌集』秋上、凡河内躬恒の「なぬかの日の夜よめる」、

としごとに逢ふとはすれど七夕の

寝る夜のかずぞすくなかりける

牽牛と織女は毎年逢うのだけれど、一年に一度だけのことなので、やはり二人が逢って寝る夜は少ないのです。

次が、『拾遺和歌集』秋、紀貫之の「右衛門督源清蔭が家の屏風に』、

ひととせに一夜と思へど七夕の

あひみる秋のかぎりなきかな

一年に一度だけとはいうものの、毎年毎年逢うのだからふたりが逢う秋の夜は限りなく多いのです。 


修業時代、澄子夫人には格別可愛がっていただきました。澄子夫人は先々代愈好斎と恒子夫人の長女として大正9年(1920)10月19日にお生まれになられました。この日は家元では2ヶ月繰り上げて一翁忌を催していました。いつも「あては一翁忌に生まれたんや」と誇らしげに仰っていました。昭和16年(1941)に先代有隣斎宗匠と結婚され、のち千茶道文化学院を創設されました。多数、懐石料理や和菓子の本を出版され、茶道はいうに及ばず料理研究家として活躍されました。平成16年(2004)7月2日に83歳で亡くなられました。生粋の京都人で、口癖は「なんえ!」で、今も家元では「なんえ!」といえば澄子夫人の代名詞になっています。軽快洒脱で男勝りの豪快さのあるご婦人でした。ちなみに、お父さんの愈好斎は表千家碌々斎の弟の久田宗悦の息子、お母さんの恒子夫人は碌々斎の娘で、当時の千家では利休さんの血が一番濃い人でした。

毎年この時期、竹につけて飾らせていただき、澄子夫人を偲んでいます。まさに一とせに一夜です。


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