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冬至

 今日は二十四節気の一つ「冬至」です。一年で最も太陽の照射時間の短い日です。天文学的に太陽の南中高度が一番低くなり、一日の昼の長さも最短になる節目といえます。実際、冬至は日の出の時刻が最も遅く、日の入りの時刻が最も早くないそうです。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の約半月後で、日の入りが最も早い日は冬至の約半月前とのことです。

 古代の中国では冬至を1年の始まりである元旦としていました。太陽太陰暦では19年に1度、冬至の日が11月1日となり、これを朔旦冬至(さくたんとうじ)といいます。朔旦冬至はまさに一年でもっとも衰えた太陽が復活する日である「冬至」と、月の復活の日である「新月」の二つが重なるまことにめでたい日なのです。古くは朝廷で宴が催され、公卿たちから賀表が奉られ、恩赦を行い、田租を免じ、叙位などが行われました。朔旦冬至の儀式は朝廷の勢力の衰微とともに行われなくなり、江戸時代になり光格天皇が再興し、明治になり廃されました。 学生時代に神話学の講義で天岩戸の神話は太陽の力が最も衰えた冬至を象徴していると習いました。その神話は、ある時、天照大神の弟須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で乱暴をはたらき、天照大神が天の岩戸(あめのいわと)にこもり高天原も葦原中国(あしはらのなかつくに)も闇の世界となり、さまざまな災いや災難などの禍事(まがごと)が発生しました。そこで神々は大いに困り、天の安河(あめのやすかわ)に集まって会議をしました。思兼神(おもいかねのかみ)の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行いました。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)と布帛をかけ、太玉命(ふとだまのみこと)が御幣として奉げ持ちました。天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神(たじからおのかみ)が岩戸の脇に隠れて立ちました。常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集めて鳴かせ、天之鈿女命(あめのうずめのみこと)が岩戸の前に桶を伏せて上に乗り、神憑(かみがか)りして背をそり乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし、力強くエロティックな動作で踊りました。すると高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑いました。これを聞いた天照大神は訝(いぶか)しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天之鈿女命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問いました。すると天之鈿女命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出しました。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力雄神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出しました。すぐに太玉命が「もうこれより中に入らないで下さい」といって注連縄を岩戸の入口に張りました。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなったのです。  天之鈿女命は猿女君(さるめのきみ)の祖先神で、天孫降臨(てんそんこうりん)の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に五部神(いつとものおのかみ)の一神として従いました。途中、高天原から葦原中国までを照らす神がいました。天照大神と高木神(たかぎのかみ)が天之鈿女命に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしないからあなたが尋ねなさい」と言われて名を問い質すと、その神は国津神(くにつかみ)の猿田彦(さるたひこのかみ)と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言ったとあります。  なお、私が稽古にうかがっている伊勢国一宮の椿大神社の御祭神は猿田彦大神で、別宮に天之鈿女命が祀られています。社伝によると、瓊瓊杵尊一行を天の八衢に出迎えた猿田彦大神とともに日向の高千穂の峰に導き、 国造りの任務を無事終えられたのち、猿田彦大神と天之鈿女命は夫婦の契を結び、のちに倭姫命(やまとひめのみこと)の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)の麓に奉斎したのがはじまりとされています。天之鈿女命は「鎮魂の神」「芸能の祖神」として、俳優(わざおぎ)芸事をはじめ、あらゆる芸道の向上、また、 縁結び・夫婦円満の守護に霊験あらたかとして、古来より信仰されています。  常世の長鳴鳥・ニワトリは天の岩戸で天照大神・太陽を呼び出すものとして活躍します。昔の人は鶏が鳴いて太陽が昇ってくると信じていたのです。そしてニワトリは太陽を迎える霊鳥とされていました。ニワトリは弥生時代の土器にも描かれた鳥装のシャーマンや竿の上につけた鳥形木製品や、古墳時代には鳥形埴輪や鳥形木製品として作られました。伊勢神宮や石上神宮、仙台の白山信仰などではニワトリを神の使いとしています。 また「鳥居」はニワトリをとまらせるものだったという説もあります。山形県白鷹町の庭渡神社では子どもが百日咳に罹患した時、ニワトリの絵を描いて納めると治るという信仰がありました。  またイエスが最後の晩餐の席で、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言った直後に、イエスは「ニワトリが鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言い、イエスがペトロの否認を預言し、ニワトリの声でそれに気づいたペトロが慟哭したという聖書の記述から「良心の声」とされています。古代ペルシアや古代ギリシア・ローマ、古代ゲルマン人もニワトリを太陽の象徴として考えて食用にはしなかったそうです。ヨーロッパでニワトリの肉や卵を食用とするために飼育するようになったのはは中世以降とのことです。日本でも古来、ニワトリは朝に鳴くことを利用目的として飼われ、 仏教の影響で殺生や肉食が忌避され江戸時代まで 卵の利用も殆どされなかったそうです。  夜と昼、生と死、水中と陸上といった互いに異なる世界の境界を関わるるということから水死体を発見するためにニワトリが用い用られたそうです。年の替わり目にニワトリが鳴いて黄金の存在を示すなどもそうです。ニワトリの鳴き声は魔よけと考えら、鳴き声を聞くとご利益があるといった信仰も生まれました。その鳴き声に神秘性を感じ、甲高い雄鶏の鳴き声は夜明けを告げる鳥ということから境界にまつわる神格とされ、洋の東西を問わず神聖な鳥とされたのです。太古、ニワトリは食用ではなく、その神秘的で美しく朝一番に鳴く声から祭祀用、ニワトリ同士を戦わせる闘鶏用であったそうです。ちなみにニワトリの鳴声は「丑(うし)の刻(午前2時)」に鳴くのを一番鶏、「寅(とら)の刻(午前4時)」に鳴くのを二番鶏といって時を知る手だてとされていました。ニワトリの名は古語で「カケ」といい、鳴き声が語源です。「カケ」の枕詞として「庭つ鳥(にはつとり)」があり「庭つ鳥鶏(にはつとりかけ)」から「にニワトリ」と呼ぶようになったそうです。  なお、ニワトリは東南アジアから中国南部において家畜化されたのがはじまりだそうで、羊や山羊、豚と同じ、または牛に遅れて馬と同じ頃に家畜として飼われたとの説があります。日本列島には弥生時代に中国大陸からチャボほどの大きさの小型のニワトリが伝来したとされています。  絵は武者小路千家12代家元愈好斎の門人で日本画家の服部春陽が昭和8年の年頭に描いた雨岩戸の図です。明日の茶事の寄付に掛けて冬至を祝います。  常世の長鳴鳥の第一声でようやく闇の世界も終わりを告げ、日ごとに太陽が照らしてくれる時間が増していき、身も心も明るくなっていきます。



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