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執筆者の写真木津宗詮

出山

更新日:2020年3月8日

 釈迦が苦行6年ののち、菩提樹の下で悟りを開いて仏になった故事を記念して行われた「臘八大接心」も今日の明け方の「鶏鳴」を迎え円成しました。今日、12月8日は、釈迦が悟りをひらいて仏・覚者・ブッダとなった事を讃える「成道会」です。

 釈迦はシャカ族の王子としてカピラ城に生まれました。何不自由のない恵まれた生活を送っていましたが、ある時、「人は生まれてきた以上、必ず老いてゆく。病気にもかかる。そしていずれ必ず死を迎える(四苦)」という自然の摂理に気づきました。人生とは「苦」を背負って生きていく道であり、人生は「苦」そのものだということです。人は生まれた瞬間から死に向かって一歩一歩歩いていく存在です。どのような希望を持とうが人間の命なんか所詮、儚いものです。釈迦はこの逃れようのない苦の現実をいかに受け止め、解決することが出来るのか、その答えを求めて29歳の時に、王子の地位も、家族もすべて捨てて出家しました。

 城を出た釈迦はまず2人の仙人を訪ねて教えを乞います。しかし、納得する答えを得ることはできませんでした。心の乱れを抑える苦行、断食の苦行、呼吸を止める苦行など、過酷な修行を6年にもわたり続けました。ところが体は極限までやせ細り、骨と皮だけの姿になるまで苦行に励んでも、本当の心の安らぎを得ることができませんでした。

 6年にわる苦行の結果、釈迦は健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことはできないことに気づきました。そして苦行をやめて、ニレゼン河に入って身を清め、村娘のスジャータから乳粥の施しを受け、ブッダガヤの菩提樹下で瞑想の座につきました。そのときの釈迦は、「我れ正覚(しょうがく)を成ぜずんば終(つい)に此(この)座を起(た)たず(悟りを開くまでは絶対にここから動かない)」という決死の覚悟で臨みました。瞑想中の釈迦の心の中に様々な悪魔や化け物が現れ、釈迦を脅したり誘惑したりしました。ところが釈迦の固い意志はことごとくこれを征服し、ついに35才の12月8日、明けの明星を見て、大宇宙の真理を体得し悟りを開いて仏(ブッダ)になりました。このときから80才の2月15日に亡くなりになるまでの布教伝道の生活を始めたのです。



  弊衣纒痩骨 襄髪覆蒼顔   世上底時節 剛然歓出山


  弊衣(へいい)痩骨(そうこつ)に纒(まと)い 髪を襄(はら)い蒼顔を覆う   世上底の時節 剛然と出山を歓ぶ


幕末の大徳寺の僧で、大徳寺第429世の明堂宗宣の出山像自画賛です。虚堂禅師の出山像の賛を写しています。粗末な衣をやせ細った体にまとい、髪の毛は脇にはらいのけて衰えた青い顔を覆っている。今まさに俗世間に出る時である。今はただ出山を歓んでいる。

 明堂のこの図は悟りを得ることができず山から出てきたときの釈迦の姿でありながらまことに円満で柔和な顔をしています。「出山」とは清浄な悟りの世界に安住することなく、迷いの世界に出て、世の人々を救済するという決意を表現した姿でもあります。背後には仏の象徴というべき後光が描かれています。これは確かに仏になるということを表しているのです。

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