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名水

『京羽二重』に「名水」という項目を設けて、

明星水、智弁水、岩清水、香水、糺清水、薬師清水、紫雲水、手水の水、尼寺の水、弁慶水、朧の清水、瀬井清水、醒井の水、柳の水、梟の水、吉水、清水、蹴上水、仙人水

の十九の名水が記載されています。また、「京三名水」として御手洗井(左京区下鴨)・菊の井(東山区下河原)・明星水(左京区吉田神社)、また同じく染井(梨木神社)・県井(京都御苑)・醒ヶ井」(「左女牛井」)もあります。

江戸時代は衛生的で便利な水道施設がなく、美味しくそして豊かな水量を誇る井戸や泉が大切にされました。時代がくだり、今日その姿を消したものもあり、形として残っているものも飲用に適するものはほとんどなくなっています。

その中で茶の湯と格別縁の深いのが醒ヶ井です。現在の堀川通りの五条を少し下がった所にあった井戸で、足利義政や千利休も用いたと伝えられる醒ヶ井水です。

むかしは特に名水を用いた茶の湯は季節を問わず行われていまし多。流儀では現在は主に夏場のものとなっています。交通の便が悪い時代には、時期を問わず名水が手に入れば客を招いていて茶事をしたとのことです。まさにこの時の初釜は名水中の名水を用いた茶の湯だったのです。

八十行脚

随處喫茶去

 用天下第一泉

 水磨墨

  物安(印)

八十行脚(あんぎゃ)随処(ずいしょ)に喫茶去(きっさこ)。天下第一泉の水を用いて墨を磨(す)る。

筆者は愈好斎の門人で、京都帝国理科大学の学長で科学者であった近重物闇(ちかしげぶつあん)です。

昭和14年(1939)1月12日、中国玉泉山の名水を用いて家元初釜が行われました。

玉泉の名水は、北京郊外西北二十五清里、玉泉山静明園の井水で、清の乾隆帝が「天下第一泉」と命名した名水です。前年の大晦日の夜に、この名水が大阪木津川飛行場へ一升瓶6本が届きました。物闇この水を使って墨を磨ってこの軸を書いています。これを送ったのが愈好斎の友人で逓信省より特殊任務を帯び、その部隊に所属する今井博より贈られたものでした。

玉泉と呼ばれる泉は、北京の頤和園の西に位置する玉泉山の南麓にあります。水が碧色をした綺麗な玉のようであることからこの名前が付きました。玉泉にある龍口はその遠望は龍が水を汲むようであり、近くで見ると白雪が飛び散るようにも見えるといわれ、『噴雪泉』ともいわれていました。古来、玉泉はその美しさから『燕京八景』の一つに数えられていました。 元々玉泉山には十数ヶ所の泉があり、総流水量も多くありました。しかし近代になって開発により泉からの水量が減り、以前の美しさがなくなりました。乾隆帝はお茶好きな皇帝で有名で龍井茶(緑茶)を好んだといわれています。彼は全国巡回をした際にそれぞれの名水の比重を比べましたが、玉泉の水が中国で一番比重が軽く、甘かったことから 『玉泉山天下第一泉記』 という石碑を自ら書き残しました。乾隆帝はこの玉泉のほかに水質の好いところを次のように示しています。

第二塞上伊遜の水 、第三済南珍珠泉、 第四揚子江金山泉、 第五無錫恵山泉と杭州虎【足+包】泉、 第六平山泉、 第七清凉山、白沙井、虎丘泉、西山碧雲寺泉

なお、近重物闇は茶の湯を64歳の時に愈好斎に師事し、点前の修練に励み12年間の間一日3度の稽古を積み重ね、自宅に二畳向切り洞庫付きの「随時軒」を営んでいます。常日頃「所謂道の秘伝、極意というものが、日の浅い究道者にとっては、案外詰まらないものだが、道に入ったものに取っては中々大切なコツであって、多年の苦心がこの一点の秘伝によって、豁然として光明を覚える。その境地に到達せない限り、秘伝極意も何らの価値もないものである」と主張していました。茶杓千本削りの念願を立て、一々茶杓にに番号をつけ、千本以上の茶杓を削りました。また禅を深く極め、漢詩、俳句など豊富な趣味で悠々自適な晩年を過ごしています。なお、生前の澄子夫人は子どものころの物闇のことを話す時、「モッタン、モッタン」といっていたのがとても印象に残っています。

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