今日は12月14日、赤穂浪士の吉良邸討入の日です。かつて権禰宜としてお世話になっていた山科大石神社の義士祭が賑やかに執り行われます。その頃のことが懐かしいです。
『仮名手本忠臣蔵』は、元禄15年(1702)の赤穂浪士の討ち入りを描いた全十一段の時代物の作品です。寛延元年(1748)に大坂竹本座で人形浄瑠璃の作品として初演されました。竹田出雲・三好松洛・並木千柳らの合作です。大好評だったため同じ年に大坂で歌舞伎に移され、翌年には江戸三座で同時に上演されました。どんなに観客が入らない時でも『忠臣蔵』を上演すれば観客が入るといわれるほどですの人気演目です。むかしから『仮名手本忠臣蔵』は「芝居の独参湯(どくじんとう)」といわれています。独参湯とは高麗人参を用いた強精薬で、観客が不入りで興行が瀕死状態の時にこの演目を上演すれば、満御礼になるということから、気つけ薬・蘇生剤として絶大な効果がある芝居としての比喩にされています。
外題の意味は、赤穂四十七士をいろは(仮名)四十七文字にかけられて「仮名手本」、そして「忠臣大石内蔵助」から「忠臣蔵」、蔵いっぱいの忠臣としたとされています。またいろは歌を7字区切りにすると「とかなくてしす」(咎無くて死す)の意が隠されているという説もあります。
鈴木松年の「仮名手本忠臣蔵」七段目大星由良助画賛です。
堪忍の
なる堪忍は
するもよし
ならぬ堪忍
するは馬鹿なり
松年(印)
この絵は『仮名手本忠臣蔵』七段目で「祇園一力茶屋の段」とか「茶屋場」とよばれる場面です。大星由良助(大石内蔵助)が仇討ちの本心をあざむくための遊蕩三昧の中で大いに酩酊してます。亡君の後室顔世御前の書状を読んだ時、遊女となった早野勘平の女房・おかるが由良助が読み始めた手紙を、好奇心から延鏡(手鏡)に映して覗き読みました。それに気づいた由良助は、密事を知ったおかるを殺すつもりで身請けをもちかけます。おかるの兄・寺岡平右衛門は、身請けの真意を察し、手柄を立てて敵討ちの供に加えてもらおうと妹に斬りかかります。驚くおかるは、父・与市兵衛の死と、夫・勘平の切腹を聞かされ覚悟を決めます。まさに刀が振り下ろされようとするところを由良助が制し平右衛門を供に加えます。そしておかるに、高師直 に内通し、由良助の真意を探るために床下に忍び込んでいた斧九太夫を夫・勘平の代りに討たせました。松年の賛はそうした由良助の心中を程伝えています。
芝居では心中に大望を秘めて遊興に耽る由良助は華やかに「紫」の衣装ですが、幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は「黒紋付」の衣装で性根が変わっているさまを表しています。幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやり扇を開いたところで幕となります。文楽では平右衛門が、両腕で九太夫を重量上げのように持ち上げるという人形ならではの幕切れとなっています。
戦後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあいました。軍国主義につながるものとして占領統治下においたGHQにより上演が禁じられました。歌舞伎の一部の演目が忠義という理念の宣伝媒体だったとされ、そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとされたからです。昭和22年(1947)7月その禁は解かれ、東京劇場で戦後初の『仮名手本忠臣蔵』が上演されています。
茶の湯と討入には深い縁があります。四十七士が討ち取った吉良の首を映画やドラマでは槍の穂先に白布に包んでぶら下げて泉岳寺に凱旋するシーンがありますが、あれは本当の首級ではなく、ダミーで本物は密かに船で運ばれたそうです。実はダミーの首級は利休さんの遺愛の桂籠で、この日催された茶事に使われた花入だったのです。その後、転々として現在は神戸の香雪美術館の所蔵になっています。籠の底にその時の刀傷が今も残っているそうです。吉良と茶友であったこの日に参加した山田宗徧自作の桂籠も併せて用います。
「堪忍」久しぶりに耳にすることばです。人生大小関わらず堪忍の連続です。いつの間にか堪忍が当たり前になりそのことばすら忘れてしまいました。自分自信「ならぬ堪忍」の局面を迎えた時、さあどう対処すれば良いのか?内蔵助のようにバカに徹して耐えに耐えて適切な堪忍をする。そして大業を成し遂げる。バカな堪忍に大きな意味がある。
「堪忍」本当に重たいことばです!
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