• 木津宗詮

宗栄


伊勢の海をうかひいてゝも 老ゑひのこしかゝまりし 身をいはふらし 官休庵 宗栄(花押)


伊勢の海に浮きび上がった海老、それも年を負った海老は腰を丸めて曲がったその身を祝っているようです。 海老はヒゲが長く腰が曲がった姿から、古来長寿の象徴とされてきました。昨日用いた望月玉渓の海老の絵に宗栄が和歌を着賛したものです。ただし、この海老は間違いなく川海老ですね! 笑 宗栄は9代家元好々斎の妻で一啜斎の末娘です。夫の好々斎は裏千家9代不見斎の四男で一啜斎に請われて武者小路千家に婿養子として入家しました。一啜斎が還暦を迎えた時、一啜斎は好々斎に家元を譲り隠居します。その後、好々斎は武者小路千家をそれまで以上に盛り立てる活躍をしますが、惜しくも41歳で亡くなります。二人の間には子どもが無く、やむを得ず表千家から10代吸江斎の弟以心斎を養子に迎えます。 当時、以心斎は8歳の幼童で、木津家初代の松斎宗詮が唯一一啜斎から皆伝をら受けていたことから以心斎の後見を務めました。その後、不幸なことに以心斎10歳の時に天然痘で失明をしてしまい、天保10年(1839)の利休250年忌の法要を宗栄と松斎とが支えて無事に営みました。その追善茶事では宗栄が濃茶、薄茶を松斎が勤めています。また、その折の記念に大徳寺開山大燈国師手植えの「五老松」の古材で作った利休松木盆の書付をし、他にも道具の極めや自作の花入や茶杓、墨跡を残しています。 また、嘉永2年(1849)には一条忠香の三女美子(後の明治天皇皇后昭憲皇太后)の生誕を祝う献茶を一条家で奉仕しています。なお、当時、未亡人が公の場に出ることは稀で、いわんや五摂家の一つである一条家で献茶をするなど異例中の異例であったといえます。 宗栄は当主のみ名乗ることのできる「官休庵」という号を用いて墨跡や箱書に署名しています。そうしたことから武者小路千家では歴代に加えてはいませんが、宗栄を単なる家元夫人としての位置付けでなく、家元に準ずる扱いをしていました。

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