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執筆者の写真木津宗詮

朝顔

 朝顔は、奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされています。種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていました。和漢三才図絵には4品種が紹介されています。中国の古医書『名医別録』では、牛を牽いて行き交換の謝礼したことが名前の由来とされています。  江戸時代の2度の朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版されています。この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれ、世間の注目を浴びています。これを現在では「変化朝顔」と呼び、江戸、上方を問わず非常な流行を見ました。特に珍しく美しいものは非常な高値で取り引きされました。珍奇な品種は愛好家たちが門外不出として秘蔵していましたが、普通の品種は植木市や天秤棒を担いだ朝顔売りから購入することができました。こういった一般販売用の朝顔は、江戸では御家人などが内職として栽培していました。これが発展して、明治時代初期から入谷朝顔市が始まったそうです。

 茶の湯の世界では、『茶話指月集』の利休の朝顔のはなしが有名です。

  宗易庭に牽牛の花みごとに咲きたるよし、太閤へ申しあぐる人あり、さらば御覧ぜん、

  とて、朝の茶の湯に渡御ありしに、朝顔庭に一枝もなし、尤も無興に思し召す、さて、

  小座敷へ御入りあれば、色鮮やかなる一輪床にいけたり、太閤をはじめ、召しつれられ

  し人々、目醒むる心地し給ひ、はなはだ御褒美にあづかる

利休の屋敷のみごとな朝顔の噂が豊臣秀吉の耳にはいり、それを見るための朝茶事に秀吉が赴きました。すると、利休は事前に朝顔をすべて摘み取ってしまいました。秀吉ははそれをいぶかしみ、とりあえずは茶席に入ったところ、一輪のみごとな朝顔が床に入れられていました。それを見た秀吉が利休の茶の心に感動したという逸話です。話しの真偽は別として、まことに有名な逸話です。  この逸話から思い出すのが、もう10年以上前に稽古にきていた夫人のことです。この方はバレーを熱心にされ、茶道にはどちらかというと不向きな方でした。友人に勧められ稽古をはじめました。毎日、犬の散歩で土手を歩くそうで、ある日突然、それまでは気に留めたこともなかった名も知らぬ草の花がとてもきれいに見えたそうです。それからの散歩が、以前とは違う楽しみで充実したものになったとのことでした。毎回、床の拝見で花をじっと見ていることにより、花本来の美しさをみることができるようになるのだと実感しました。この夫人の話しを聞いた時、作法ということで当たり前になってしまい、いつの間にか忘れ去られているものがある。よく心しなければならないと肝に銘じました。

 谷文晁の朝顔の扇面です。 谷文晁は宝暦13年(1763)に江戸下谷根岸に生まれました。通称文五郎。写山楼・画学斎などの号があります。父は田安家の家臣、詩人としても名のあった谷麓谷。10歳のころから狩野派の加藤文麗に絵を学び、19歳のころ、南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に師事しています。天明8年(1788)田安徳川家に出仕して五人扶持となり,同年長崎に遊学して清人張秋谷に文人画を学んでいます。寛政4年(1792)には白河侯松平定信付となり,翌年3月から4月にかけ定信の江戸湾岸巡視に随従して「公余探勝図」を制作しています。宝暦13年(1840)に78歳で亡くなっています。



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