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玉川

 駒とめてなほ水かはん山吹の

 花の露そふ井手の玉川

         (藤原俊成「新古今和歌集」)


 玉川は京都府綴喜郡井手町を木津川に注ぐ川です。玉川は水量は少なく、水無川(みずなしがわ)の異名もあります。なお、井出という地名は「川の流れを堰き止め水を留める」ことを意味する井堤(井堰)がもとになっているそうです。

 奈良時代、聖武天皇に仕えた左大臣橘諸兄(井出の左大臣)がこの地に別荘を構え、その氏寺として井堤寺(いでじ)をつくり、寺の庭をはじめ玉川の堤にも山吹を植えました。そこで「井手の玉川」は山吹の名所とされ、『古今和歌集』では井手は歌枕として山吹とともに詠まれています。ところが昭和28年8月の南山城水害で玉川と堤は大きな被害を受け、その後の護岸工事によって山吹の姿は消えてしまいました。近年は地元の住民の努力で復元されています。

 武者小路千家では直斎好みの玉川焙烙という玉水焼の灰器があります。山吹の名所にちなみ、玉川の水の流れに山吹の花の押型がほどこされた素焼のものです。

 玉水焼の祖一元は楽家4代一入と「こいと」という女性との間に庶子として生まれました。一入が宗入を養子にしたことにより、一元が楽家の文書と楽の銀印を持ち出し、母こいとの生地玉水で開窯したことにはじまります。一元の作品は本阿弥光悦とよく似た作風で、それに紛れている作品も多いといわれています。弥兵衛は幼名を吉三郎、弥兵衛、号を一元と称しました。一元の後、一元の長男の一空(弥兵衛)、次男の任土斎(弥兵衛・直翁)と続き、仁土斎の弟子・伊縫楽翁が継ぎ、5代娯楽斎、6代凉行斎、7代浄閑斎、8代照暁斎。玉水焼は8代続き明治に至って窯を閉じています。











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