臘八
- 木津宗詮
- 2023年12月7日
- 読了時間: 2分
明治初年の大徳寺471世で、大徳寺派2代管長であった牧宗宗寿の作になる茶杓です。「碧眼録百物語り」と箱書に記されていることから多分、牧宗は100本の茶杓を削ったものと思われます。煤竹が用いられ、全体的に太めのがっしりした茶杓です。樋が深く、そして腰高のとてもしっかりした節の竹を本樋に用い、櫂先は折ためで、切止は通常のものと反対に皮目に向かって一刀に削ぎ落とし、通常の茶杓よ畳目一目短く十二目です。筒は不規則な刀痕の草の形式で、筒の蓋は一般的なものでなく、単に短い円柱状のもので〆印が墨書されています。
銘不識 大徳牧宗自作(花押)
碧眼頌百物語り 第一則
聖諦廓然何弁的
封朕者誰還云○○ 文畧之。
省略した文は『碧眼録』の頌で、圜悟克勤が『碧眼録』のテキストにした雪竇重顕が『古則百則』です。長文ですが以下が全文です。
聖諦廓然、何当(いつのひ)にか的を辨ぜん。朕に対する者は誰ぞ。還(ま)た云う、識らずと。茲(これ)に因り暗(ひそか)に江を渡る、豈に荊棘(いばら)生ずることを免れんや。闔国の人追うも再来せず、千古万古空しく相憶う。相憶うことを休めよ、清風地に匝(あまね)く何の極まることか有る。師左右を顧視(みまわ)して云く、這裏(ここ)に還た祖師有りや。自ら云く、有り、喚び来たりて老僧の与(ため)に脚を洗わしめん。
聖諦廓然、仏法の根本である虚空はいつになったら核心を得ることができるのか。「私と向かい合っているのは誰か」と尋ねたら、やはり、「知らない」と答えた。そうして長江を渡って魏へ行ってしまった。おかげでここはいばらが茂るほど国が荒廃してしまった。国中の人が迎えに行っても再び来てくれることはなかった、永遠ににむなしい思いとなる。そんなことを思うのはをやめなさい、清風は限りなく大地を吹き渡っているではないか。師(雪竇)は左右を見回して言った、「ここに祖師(達磨)はおられるか」。
自分で答えた、「いるようだ。呼び寄せて、わしの脚を洗わせよう」と。
この文の中にある深遠な悟りの世界を私はまったく理解できませんが、解釈本を参考に単に訳しました。
お釈迦さんが12月8日の未明に菩提樹のもとで悟りを開いた成道(じょうどう)を記念して、昨日、12月1日から8日の朝までの7日間を一日と見なして大徳寺はじめ禅宗の僧堂では命がけの修行が行われています。大小便と食事以外は坐禅ひとすじ、そして老師に参禅して与えられた公案の見解を示す。いわゆる「臘八大摂心」です。ちなみに「臘八」とは12月を表す臘月の8日即ち12月8日を示していいます。
今夜も雲水さんは昼夜一睡もすることなく悟りに向けて精進して修行しています。
Comments