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臨終

この世をばわが世とぞ思ふ望月の

かけたることもなしと思へば

との歌を詠んで摂関時代の全盛期に廟堂の頂点を極め、朝政を主導してこの世の栄華を極めた藤原道長も、その後体調を崩して病に苦しみ、その原因が怨霊の祟りであるとして出家して浄土信仰に傾倒し念仏を三昧の日々を送りました。そして土御門殿に隣接する地に九体阿弥陀堂の建立を発願し、のちに法成寺と号しました。『栄花物語』によると、道長は臨終にあたり、5色の糸を九体の阿弥陀如来像の手から道長の手に結び、釈迦の涅槃に倣い北枕で西側に向いて臥し、その周りを妻の源倫子や息子の藤原頼通、そして殿上公卿らが囲み、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、極楽浄土に往生を願いながら万寿2年(1027)12月4日にその62年の生涯を閉じてました。

『栄花物語』は道長賛美の内容で、臨終の場面も美化しているようです。実際、藤原実資の日記『小右記』には、晩年の道長は心臓病をはじめ糖尿病、白内障などの病を患っていたようです。万寿2年の6月頃から飲食できなくなりひどい下痢に苦しみました。10月には生死の淵をさまよい、その後、もちなおして10月28日に再び重い下痢に罹り、11月に入ると排尿・排便がままならず、失禁を繰り返す日々を送るようになりました。また背中に腫瘍ができ、11月半ばには乳房大に腫れ上がったとのことです。そして12月2日、医師の丹波忠明が道長の腫瘍に針を刺し膿を出す治療を行ったところ、腫瘍に針を刺すと膿汁と血液が少々出て道長は悲痛な叫び声をあげ悶絶してしまいました。そして12月4日の早朝に道長は息を引き取ったとあります。

道長の血筋は遺伝的に糖尿病の家系だったとのことです。伯父藤原伊尹(これただ)は重症の糖尿病に悩まされ49歳で亡くなっています。長男の道隆も糖尿病で酒の飲みすぎによる病気で死亡したとされています。当時の貴族の食生活は米を食べ、魚介類の乾物や発酵食品が主で、その上に酒を飲み、過飲過食、運動不足で糖尿病を悪化させる生活を送っていました。50歳を過ぎてからの道真は昼夜なく水を飲みたくなり口が渇いて脱力感がありながら食欲は以前と変わらなかったと『小右記』に記されているそうです。また、視力が極度に低下し、顔を近づけても相手が誰かわからなくなっていたということです。これは糖尿病合併症の白内障が相当進行していたことの証だそうです。

友人の医師に教えてもらいましたた。糖尿病はよくのどが渇き、しきりに水を飲み、尿の量が多くなるなどの症状があり、合併症として眼底の網膜が障害される糖尿病性網膜症や腎機能が低下する糖尿病性腎症、手足の感覚がなくなってしまう糖尿病性神経障害といった三大合併症のほか、白内障や心筋梗塞や脳梗塞などの大血管障害が発生するとのことです。昔はその症状から「飲水病」とか「口渇病」などと呼ばれていました。基本的に乱れた生活習慣が糖尿病発症を引き起こす生活習慣病ですが、発症しやすいか否かについては遺伝的素因が大きく関与するとのことです。

道長が亡くなった法成寺は十斎堂、講堂、経蔵、西北院、金堂、五大堂、東北院等の堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めました。鎌倉時代に入りたびたび大火・兵火等の災難に遭遇して伽藍は荒廃して廃寺となっています。現在は京都府立鴨沂高等学校の塀際に法成寺があったことを示す石標が残るのみです。また、東北院も移転・再建され左京区浄土寺真如町に現存しています。


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