宇治橋畔の茶通圓の創業は平安時代末永暦元年(1160)にさかのぼるそうです。元祖は源頼政の家臣、古川右内という武士だそうで、晩年隠居をし頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、宇治橋東詰に庵を結びました。宇治川の合戦では主君源頼政のもとにはせ参じてともに平家の軍と戦い討ち死にを遂げらろのことです。
その後代々、「通圓・通円」の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を勤め茶店を営みました。第7代目通圓は大徳寺の一休に参禅しています。7代が死んだ後、一休が同家を訪れ、「一服一銭一期の泡」の墨跡を贈っています。伝一休作初代通圓の木像は茶筅と茶碗を持ち舞っている姿で店の正面に祀られています。10代目と11代目の通圓は、当時伏見城にいた豊臣秀吉が茶事を催すにあたり、“天下の名水”といわれた宇治川の水を五更、すなわち寅の刻(午前3時から午前5時までの2時間)に宇治橋「三の間」より汲み上げさせて伏見城に運ぶように命じられています。その時水汲みに使った釣瓶は秀吉が利休に命じて特に作らせたものとのことです。
能「頼政」のパロディの狂言で「通円」という曲があります。東国の僧が都見物をすませ奈良へ向かう途中に宇治橋のたもとに着きました。そこに無人の茶屋があり、今日は法事なのか、茶湯と花が手向けられていました。そこで不思議に思い所の者に尋ねると、「昔ここには通円という茶屋の坊主がいたが、宇治橋を架け終えた橋供養の折に、集まった大勢を相手に茶を点て、ついに点て死にした。今日はその者の命日です」と語り回向を勧めました。通夜をしている僧の枕辺に通円の霊が現われました。そして通円は、自分が亡くなる前の「宇治橋供養の際の、客との攻防」を仕方話(しかたばなし)で語り始めました。宇治橋供養に都の道者たちが300人ほど、通円の点てる茶を飲みほそうと押し寄せて来ました。それに負けじとばかりに召使どもを駆使しながら、片っ端からお茶を点て、点てて点てて点てまくりますが、客も入り乱れて我も我もと飲みにかかり、ついには頼みの茶碗や柄杓までも打ち壊されてしまいました。もはやこれまで通円も観念し、平等院の縁の下に団扇を敷いて、衣を脱ぎ座して時世の歌を詠んで死にました。本文の一部を以下に紹介します。
名乗りもあへず三百人、口脇を広げ茶を飲まんと、群れゐる旅人に、大茶を点てんと茶杓をおっ取り簸屑(ひくづ)ども、ちゃっちゃっと打ち入れて、浮きぬ沈みぬ点てかけたり。
通円、下部を下知して曰く、水の逆巻く所をば砂ありと知るべし、弱き者には柄杓を持たせ、強きに水を荷はせよ、流れん者には茶筅を持たせ、互いに力合わすべしと。ただ一人の下知によってさがかりの大場なれども、一騎も残らず点てかけ点てかけ、穂先を揃へてここを最後と点てかけたり。さるほどに入り乱れ、我も我もと飲むほどに、通円が茶飲みつる茶碗・柄杓を打ち割れば、これまでと思ひて、平等院の縁の下、これなる砂の上に団扇を打ち敷き、衣を脱ぎ捨て座を組みて、茶筅を持ちながら、さすが名を得し通圓が
埋み火の燃え立つことのなかりせば湯のなき時は泡も点てられず
跡弔ひ賜へおん聖、かりそめながらこれとても、茶生の種の縁に今、団扇の砂の草の陰に、茶ち隠れ失せにけり、跡茶ち隠れ失せにけり
「文化デジタルライブラリー」より
シリアスな修羅能をパロディーで徹底的に滑稽なものにしています。昔の人の遊び心が楽しい狂言です。
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