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執筆者の写真木津宗詮

還幸

還幸とは天皇や神が出先から帰られることをいいます。

嘉永7(1853)年4月6日昼、女院御所からの出火により、現在の上京区のほぼ南半分の地域が罹災し、内裏はじめ仙洞御所、女院御所、一部の公家屋敷、190余町、5400余の家が焼失する「嘉永の大火」が起きました。光格天皇は聖護院に、ついで下鴨神社に遷幸し、のちに桂宮邸を仮御所とし、新内裏が完成するまでの1年半をここで過ごされました。そして翌安政2年11月23日にめでたく新内裏に還幸されました。

ちなみに、前年の嘉永6年6月3日にアメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船率いて浦賀沖に来航し、翌7年1月16日、再びペリーが江戸湾に来航しました。そして11月4日には東海地震、11月5日南海地震、11月7日豊予海峡地震などの災異のため11月27日に安政に改元されています。


新内裏の

御遷幸を祝し奉りて

前大徳大綱

天の下

みなあふくへ

馬くるま

はなをかさりて

うつります日を



この歌は、大徳寺の大綱宗彦が光格天皇の新内裏への還幸についての歓びを詠んだ和歌です。

嘉永の大火は、前出のと通り女院御所が火元で、孝明天皇の異母姉敏宮の住まいであった芝御殿 に居住していた仁孝天皇の後宮に仕えていた孝順院の召使いの紅梅が、主人の嫌いな梅の木の毛虫を焼き殺そうとした火が湯殿の屋根に飛び火したのが原因となった大火で、当時「毛虫焼け」と呼ばれました。武者小路千家もこの火災に類焼し、11代一指斎が幕末・維新の困難な時期を耐えて、ようやく明治14年(1881)に再興して今日に至っています、

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