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執筆者の写真木津宗詮

飛流

一渓宗什(いっけいそうじゅう)の滝画賛です。


飛流直下三千丈疑是銀河落九天 紫阜一渓叟(印)

   

飛流直下三千丈、疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと

一渓宗什は山城国に生まれました。一渓は道号、宗什は法諱、号は閑雲・松月老人等があります。勅諡号は真覚普応禅師。大徳寺185世玉宗璠に就きその法を嗣ぎ、寛文7年(1668)大徳寺212世として入寺しています。芳春院の3世と松月軒を兼務し、同12年(1673)品川の東海寺の輪番もつとめています。貞享元年(1684)に67歳で示寂しています。

松月軒は元西加茂の正伝寺裏にあり、沢庵の弟子説渓が聚光院の裏に移しました。その後、一渓が芳春院内に移築しています。これ以降、芳春院住持の退休の坊となり、同寺9世大渓宗徹・11世真巌宗乗・13世宙宝宗宇が住持になり、それぞれ松月老人と号しています。明治維新後には芳春院に統合されて、現在は廃寺になっています。

なお、「松月老人」というと一般的に宙宝の号とされていますが、少なくとも一渓も含め4人が使っています。筆跡が異なるということで贋作とされているものがあります。注意しなければいけません。

芳春院は武者小路千家と格別関わりの深い寺です。4代一翁宗守は一渓の師である玉舟に参禅し、宗守の安名を授けられています。8代一啜斎も真巌から斎号を授けられ、その娘で9代好々斎の妻である宗栄も智昌の安名を授けられています。他の歴代も資料はありませんが、多分、芳春院の住持に参禅し、号を授けられていたと考えられます。記録によると一翁は玉舟とともに、未だ修業時代の一渓としばしば行動ををともにしていました。そういう意味では一翁と深いなじみの間柄の和尚です。



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