初代 松斎宗詮
安永四年~安政二年(1775 ~1855)81 歳
名は敬包。大徳寺四三五世大綱宗彦に参禅し松斎の号を授けられ、松平不昧より宗詮・卜深庵・寒松軒の号を受ける。法名降龍。 大坂木津(大阪市浪速区大国町)の願泉寺に生まれ、その住職となり、のちに雅楽を広めるため江戸に下る。料亭八百膳で松平不昧の知遇を得、不昧自筆の「寒松一色千年別有」の軸を拝領して帰坂し、不昧の薦めにより武者小路千家八代一啜斎宗守に入門し茶の湯をもって身をたつ。なお同じく不昧の推挙により紀州徳川家の小納戸役(大坂在住)として仕官する。かねて紀州藩士の伊達千廣(陸奥宗光父)と親交があり、大阪夕陽ケ丘の藤原家隆ゆかりの夕陽庵趾をともに修復している。 一啜斎より真台子の伝授を受け、九代好々斎、続いて一啜斎没後、十代以心斎を後見し、特に天保十三年(一八三九)利休二百五十年忌の折には家元、流儀のために格別尽力した。なお武者小路千家十代以心斎が目を不自由にしたことにより多くの道具の極めをし、また好み物を多数残している。門下に一乗院門跡尊融入道親王(久邇宮朝彦親王)・小山田主鈴・平瀬士陽・平瀬士瀾・加島屋作兵衛・北風荘右衛門・山県玄巴・中井正右衛門等多数がいる。
三代 聿斎宗泉
文久二年〜昭和十四年(一八六二〜一九三九)78歳
二代得浅斎の子。名は宗一。初め宗隆、宗詮、のち宗泉。俳号露眞。大徳寺僧堂師家川嶋昭隠に参じ、聿斎の号を受ける。 茶 の湯を一指斎・得浅斎に師事する。少年期、平瀬露香に伴われ,東上し大蔵省簿記伝習所で経理を、宮内省内匠寮で建築を学ぶ。第三二銀行・大阪東区役所・豊 田絨店に務め、明治四十二年(一九〇九)平瀬露香より家元預り引き継ぐ。大正七年(一九一八)、武者小路千家十二代愈好斎家元襲名により、家元預りを返上 し、愈好斎に返伝する。茶室・茶庭の設計に長じ、貞明皇后(大正天皇皇后)の大宮御所の茶室「秋泉亭」のご下命を受け、そ の功により一代限り「宗泉」の名 を賜る。 好み物、また茶室・茶庭を多数残している。