コンプラ瓶(金冨良瓶)

更新日:2020年3月8日

 「コンプラ」とは,ポルトガル語の「コンプラドール(Comprador)」の略称(CPD)です。日本語では「買い手」とか「仲買」「買付」という意味です。  江戸時代、長崎の商人たちが「金冨良社」という組合を作り、出島のオランダ東インド会社(V.O.C)を介して、オランダ商館員や来航船の乗組員のために,日用品,輸出品,および貨物梱包品などいわゆる諸色を,日本商人との間に立って取次ぎ,仲立ちをしました。そうした輸出品のなかに酒や醤油があり、東インド会社を通じてヨーロッパや東南アジアにもたらされました。なお、この商人達を「コンプラ株仲間」、とか「コンプラ商人」と呼んでいました。東インド会社がs輸出した醤油や酒を入れた容器を「コンプラ瓶」といいました。 コンプラ瓶にはオランダ語でJAPANSCHZAKY(ヤパンセ・サキー、日本の酒)とかJAPANSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー、日本の醤油)と書かれています。なお、また、瓶の下部に「CPD」とかかれているものもあります。染付されたいる文字は手書きが多く、型紙摺りのものもあります。これは「コンプラドール」の略です。「コンプラ瓶」の容量は「2合9勺余」(約500ミリリットル )で高さ約20センチほど、口はコルク栓で密閉されていました。瓶のデザインはオランダ人の注文で、安定を考えてどっしりとした形に仕上げられています。なお、「コンプラ瓶」が登場する以前は、「ケルデル瓶」と呼ばれる四角いガラス製の瓶が用いられていたそうです。ところがこの瓶が不足し、それを補うために長崎に近い伊万里や、波佐見の焼き物による瓶が使われるようになったとのことです。  長崎商館の医務職員として勤務したスウェーデンの医学者で植物学者のツンベリーの旅行記『ツンベルク日本紀行』に、

  日本人の作る醤油は非常に上質で,これはシナ(中国)の醤油に比して遥かに評判が良か

 った。そのため、日本の多量の醤油がバタビア、印度、及びヨーロッパに運ばれた。そ

 の輸送に携わったオランダ人は、微生物のため醤油