木津宗詮11月6日1 分平瀬家本家平瀬露香の大阪平瀬家本家を兵庫県宍粟市山崎に訪ねました。ご子孫から詳しくお話を伺い、貴重な資料も拝見させていただきました。とてもご親切にしてくださり本当にありがとうございました。写真はご了解をいただいてアップしてます。
木津宗詮11月4日1 分11月4日 稽古場の床東京の稽古場の炉開きです。床は大徳寺大綱和尚筆一行「めでたくかしく」を掛け、前に北野天満宮献茶道具の茶壷の控えを飾りました。床柱に竹一重切花入に西王母椿と照葉。 明治14年に武者小路千家11代家元一指斎が北野天満宮で初めて献茶を奉仕しました。その際に大阪の社中で木津家2代得...
木津宗詮11月3日2 分あれから10年あれから10年の歳月が経ちました。父露真が70歳の古稀を迎え隠居するということで、私が7代宗詮を襲名しました。昔の70歳と今の70歳は大違いでまだまだ元気で気力もそんな衰えているということもなく、まだまだこれから茶人としての活躍が期待される状況でした。それにもかかわらず隠居...
木津宗詮8月27日8 分跡見花蹊と得浅斎の交流『跡見花蹊日記』には、茶の湯以外での花蹊と得浅斎との交流が多く認められている。文久元年(一八六一)の六月十五日の項には、次のような記述がある。 私、木津さまへ参り、お千枝さまの舞ノ地 致し、暫遊んで帰り候 お千枝とは明治十二年(一八七九)に亡くなった遊心と考えられる。この日...
木津宗詮8月10日4 分琴ノ浦 温山荘園(ことのうら おんざんそうえん)明治時代から昭和前期の実業家新田長次郎の和歌山県海南市の別邸です。この別邸は新田の郷里、松山藩旧藩主久松定謨伯爵来阪の際の迎賓館兼新田家別荘として建造されました。また、久松伯爵の他に伏見宮文秀女王、桂太郎、清浦金吾、東郷平八郎、秋山好古などの皇族、華族が訪れています。...
木津宗詮8月3日4 分8月2日 稽古場の床昨夜の稽古の床は平瀬露香筆になる短冊「夏月易明」。花は時計草を瓢籠にいれました。 夏月易明 うたゝねに其すゝしさをみる程も 月におくれて覚る夢哉 貞英 夏の月が涼しい光を放ちます。夏の夜は短く、うたた寝をしている間に夜が明けてしまい、あっという間に夢から覚めてしまいます。...
木津宗詮7月29日2 分聿斎の最期昭和十四年(一九三九)二月、風邪をこじらせ病床に就き、五月には同十年から設計に携わっていた田利吉邸五風荘の披露茶会が催されるが病床のため参加できなかった。同月十一日、近衛文麿の実弟水谷川忠麿が伏見町四丁目の自宅に見舞いに訪れている。その折、一乗院宮尊応親王から松斎が拝領した...
木津宗詮7月12日1 分三猿堂伊木三猿斎は幕末から明治維新の困難な時期に藩政の指揮を執った岡山藩筆頭家老で、裏千家玄々斎に茶の湯を師事しました。大徳寺山門金毛閣に安置される利休居士立像は、三猿斎没後に大徳寺に寄贈されたものです。なお、三猿斎は、釉薬掛けにも独特な味をもった京風な作品を虫明焼に求を始め、岡...
木津宗詮7月1日1 分7月1日 稽古場の床宙宝和尚の沢庵和尚白紙賛写です。床柱に紫陽花と蛍袋を蛇籠に入れて掛けました。 軽々白羽過蘆花 是鶴耶鴎耶鷺耶 楮国乾坤象王背 普賢世界布銀砂 沢庵和尚白紙賛 竜宝山頭松月野叟応木津宗詮老求書(印) 軽々たる白羽蘆花を過ぎ 是れ鶴や鴎や鷺や 楮国乾坤象王の背...
木津宗詮6月14日2 分茶道学術奨励賞私の七代宗詮襲名の記念に執筆した『千一翁 宗旦の子に生まれて』(宮帯出版)が、公益財団法人三徳庵(大日本茶道学会)な茶道文化学術評価され、茶道文化学術奨励賞をいただきました。 ちょうどその授賞式が学士会館で行われたのが2014年6月16日でした。あれから9年の歳月が経っ...
木津宗詮6月5日2 分二代得浅斎の兄2代木津得浅斎(とくせんさい)宗詮は文政5年(1822)播磨国高砂(兵庫県高砂市)の善立寺(ぜんりゅうじ)13代正厳(しょうごん・天保13年10月28日没、49歳)と妙厳(みょうごん・房枝)との間に生まれました。兄にのちに善立寺14世となる正隆(しょうりゅう)がいました。ま...
木津宗詮5月22日1 分跡見学園かつて二代宗詮とその門下の跡見花蹊について執筆するために跡見学園にうかがいました。中高の校長の嶋田先生に格別なお世話になりました。なにより跡見花蹊直筆の日記を見せてもらったことが最大の収穫です。二代との交流が何箇所も記されています。稽古は当然ですが、お風呂をもらいにきたり、...
木津宗詮4月24日1 分四天王寺献茶本日4月22日は聖徳太子の命日です。大阪四天王寺で最も重要、かつ大規模な法要聖霊会が営まれます。聖霊会は1400年にわたる歴史を持ち、式衆と楽人により聖徳太子像と仏舎利が境内の六時堂に渡御、安置され、天上に咲く曼殊沙華を模した真っ赤な紙の花が飾られた六時堂前の石舞台(重要文...
木津宗詮3月31日1 分松平不昧公もとは浄土宗江戸四ヶ寺のひとつ、芝の天徳寺にあった松平不昧公の墓です。関東大震災の被害に会った際、松江の月照寺に移されることになっていましたが、高橋箒庵が護国寺に移転しました。 初代松斎宗詮は大坂木津の願泉寺に生まれ住職として勤めます。四天王寺で雅楽を嗜み、寺を弟に譲り江戸...
木津宗詮3月12日2 分3月11日 稽古の床先日来、蔚山大学魯名誉教授との座談会、また教授の主催する研究会のメンバーとの交流で、韓国蔚山に赴きました。それにちなみ、本日の稽古の床に三代聿斎宗泉の朝鮮東莱府に赴いた時、その途次の山並みを描き自賛を認めた軸を掛けました。花は本来は違法ですが、蔚山でもらって持ち帰った椿と銀...
木津宗詮3月8日1 分聿斎宗泉丁卯歳試筆3代聿斎宗泉の丁卯歳の試筆です。この年は昭和2年(1927)にあたり、兎の絵を自ら描き、 治れる御代は風さへ静なり 海ばら遠く波たゝずして 春の海兎のどかに遊らし と色紙に泰平の御代を寿ぐ和歌と発句をそれぞれ認めています。 またもう一幅は、 開動明眎妙...
木津宗詮3月7日1 分瀬戸茶入 鶯武者小路千家10代以心斎の銘になる瀬戸焼茶入です。 天保6年に武者小路千家9代好々斎が無嗣で亡くなりました。そこで急遽表千家10代吸江斎の弟以心斎を養子に迎えました。当時、以心斎は6歳で初代木津松斎宗詮が後見となり、高松公の命で3年間大坂屋敷内の長屋が貸与され、松斎に就いて...
木津宗詮2月20日1 分干支(えと)干支は12年に一度巡り来ることから、それに因む道具はまことに贅沢なものです。かつてある老道具屋から聞いた話ですが、「裏干支」といって6年後にも使うことができるとのことですが、今ではそんな習慣もなくなり、当たり年だけのようです。ただし兎なら月見とか鼠と大根は年末、牛は天神さん...