木津宗詮4 日前2 分二代得浅斎の兄2代木津得浅斎(とくせんさい)宗詮は文政5年(1822)播磨国高砂(兵庫県高砂市)の善立寺(ぜんりゅうじ)13代正厳(しょうごん・天保13年10月28日没、49歳)と妙厳(みょうごん・房枝)との間に生まれました。兄にのちに善立寺14世となる正隆(しょうりゅう)がいました。ま...
木津宗詮5月22日1 分跡見学園かつて二代宗詮とその門下の跡見花蹊について執筆するために跡見学園にうかがいました。中高の校長の嶋田先生に格別なお世話になりました。なにより跡見花蹊直筆の日記を見せてもらったことが最大の収穫です。二代との交流が何箇所も記されています。稽古は当然ですが、お風呂をもらいにきたり、...
木津宗詮4月24日1 分四天王寺献茶本日4月22日は聖徳太子の命日です。大阪四天王寺で最も重要、かつ大規模な法要聖霊会が営まれます。聖霊会は1400年にわたる歴史を持ち、式衆と楽人により聖徳太子像と仏舎利が境内の六時堂に渡御、安置され、天上に咲く曼殊沙華を模した真っ赤な紙の花が飾られた六時堂前の石舞台(重要文...
木津宗詮3月31日1 分松平不昧公もとは浄土宗江戸四ヶ寺のひとつ、芝の天徳寺にあった松平不昧公の墓です。関東大震災の被害に会った際、松江の月照寺に移されることになっていましたが、高橋箒庵が護国寺に移転しました。 初代松斎宗詮は大坂木津の願泉寺に生まれ住職として勤めます。四天王寺で雅楽を嗜み、寺を弟に譲り江戸...
木津宗詮3月12日2 分3月11日 稽古の床先日来、蔚山大学魯名誉教授との座談会、また教授の主催する研究会のメンバーとの交流で、韓国蔚山に赴きました。それにちなみ、本日の稽古の床に三代聿斎宗泉の朝鮮東莱府に赴いた時、その途次の山並みを描き自賛を認めた軸を掛けました。花は本来は違法ですが、蔚山でもらって持ち帰った椿と銀...
木津宗詮3月8日1 分聿斎宗泉丁卯歳試筆3代聿斎宗泉の丁卯歳の試筆です。この年は昭和2年(1927)にあたり、兎の絵を自ら描き、 治れる御代は風さへ静なり 海ばら遠く波たゝずして 春の海兎のどかに遊らし と色紙に泰平の御代を寿ぐ和歌と発句をそれぞれ認めています。 またもう一幅は、 開動明眎妙...
木津宗詮3月7日1 分瀬戸茶入 鶯武者小路千家10代以心斎の銘になる瀬戸焼茶入です。 天保6年に武者小路千家9代好々斎が無嗣で亡くなりました。そこで急遽表千家10代吸江斎の弟以心斎を養子に迎えました。当時、以心斎は6歳で初代木津松斎宗詮が後見となり、高松公の命で3年間大坂屋敷内の長屋が貸与され、松斎に就いて...
木津宗詮2月20日1 分干支(えと)干支は12年に一度巡り来ることから、それに因む道具はまことに贅沢なものです。かつてある老道具屋から聞いた話ですが、「裏干支」といって6年後にも使うことができるとのことですが、今ではそんな習慣もなくなり、当たり年だけのようです。ただし兎なら月見とか鼠と大根は年末、牛は天神さん...
木津宗詮2月18日1 分一啜斎好 炭斗爐了入作になる一啜斎好みになる炭斗爐です。爐とかいて「ほうろく」と読みます。 一啜斎の箱書には、 炭斗爐 楽吉左衛門造焉 官休庵宗守(花押) 自好 とあります。 『官休庵秘聞鈔』という伝書には、 ほうろく炭斗兼用、一啜斎好にて左の如し、...
木津宗詮2月4日4 分心の目天保6年(1835)1月二22日に武者小路千家9代好々斎が41歳で亡くなります。まさに業半ばの死でした。あとには義父一啜斎と義母智法、妻の宗栄が残され、好々斎と宗栄の間には宗普(文政3年9月16日歿)という女子がいたようですが、夭折しており、好々斎が亡くなった時には実子がい...
木津宗詮1月23日2 分伊達千広幕末の紀州藩士で国学者、明治の元勲陸奥宗光の父である伊達千広(宗広)の懐紙「冨士」です。 冨士 自得居士 千廣 不二かねの 雪くれなゐに にほふ也 今や朝日の 海を出らむ 富士山の峰の雪が海から上った朝日に照らされて紅に美しく映えている光景を詠んでいます。かつて三保の松原で...
木津宗詮1月18日1 分1月18日 稽古場の床初代松斎宗詮の一行「風動六花舞(かぜうごいてりっかまう)」です。花は日光椿と有楽椿、白梅、花入は粉引。 六花とは結晶が六角形であるところから雪の異称です。「むつのはな」とか「ろっか」ともいいます。表具は初代の好みになります。雪の句だけに赤い紙がなんともいえない風情を醸し出します。
木津宗詮2022年12月29日1 分浅利とる人や目出度年のくれ初代松斎宗詮の「郡宛書状」です。 昨今存外長閑ニ 相覚へ申候然ハ 南紀ゟあさり貝 任到来進上仕候 當年 □にて風与 浅利とる 人や 目出度 年の くれ 可笑〳〵 かしく 卜深庵 朧廿九日 郡様 尚々御令室様へ りうゟ 宜敷申し上呉候様 申候かしく...
木津宗詮2022年12月5日2 分平瀬露秀平瀬露秀は、明治9年(1876)に平瀬家の一族冨子助次郎の長男で三七雄、のち名を春齢(以下露秀という)と改め、露秀と号している。露香の養嗣子として平瀬家に迎えられた。 東京商業学校を卒業後兵役に服し、明治40年(1907)に家督相続した。この時期の平瀬家の家勢は衰退の時期に...
木津宗詮2022年10月5日1 分長堀橋寛政11年(1799)3月11日に初代松斎宗詮がまだ願泉寺で降龍と名乗っていた時、父の時龍とともに聖護院宮盈仁親王を長柄橋でお迎えして願泉寺にご案内しました。 宮は箕面山の法楽に赴く途次で、3月13日まで願泉寺に逗留されました。この時、空襲で焼けて今はありませが伊達政宗か建...