フランシスコ・ザビエルの右腕

 フランシスコ・ザビエルはナバラ王国(イベリア半島北東部、現スペインバスク地方)に生まれイエズス会の創設メンバーの1人で、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、天文18年(1549)に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師です。その略歴は以下の通りです。

 永正3年(1506)ナバラ王国の地方貴族であった父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタの子としてハビエル城で生まれる。

 大永5年(1525)パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り自由学芸を修め哲学を学ぶ。

 天文3年(1534)イグナチオ・デ・ロヨラらとモンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てイエズス会の創立する。

 天文6年(1537)司祭に叙階される。

 天文10年(1541)東洋宣教を目的としてリスボンを出発する。

 天文16年(1547)マラッカで鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人と出会う。

 天文17年(1548)ヤジロウの案内でジャンク船でゴアを出発し日本を目指す。

 天文18年(1549)薩摩半島の坊津に上陸し薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見し宣教の許可を得る。

 天文19年(1550)8月、肥前国平戸に入り宣教活動を行い、10月下旬、京を目指し平戸を出立する。11月上旬に周防国山口に入り周防国の守護大名・大内義隆と謁見し12月半ば周防を発ち、堺に上陸し豪商の日比屋了珪の知遇を得る。

 天文20年(1551)年1月、京に到着。全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願するがかなわず、京での滞在をあきらめ3月に山口を経て平戸に戻る。

 同年4月下旬、大内義隆に再謁見し宣教の許可を得、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。

 同年9月、豊後国に到着し、守護大名・大友義鎮(宗麟)にの保護を受けて宣教を行う。

同年11月、インドを目指して出帆し2月にゴアに到着する。

天文21年(1552)4月、中国を目指し、9月マカオ南方の約80km離れた上川島(サンショアン島)に到着するが病を発症し、12月3日、上川島で46歳で没する。


マカオ南方の上川島で亡ったザビエルの遺体は最期を見とった弟子たちが棺に石灰を入れて埋葬されました。2ヶ月経過しても遺体は腐敗せず今にも生き返りそうな色艶をしていたそうです。そして改めてマラッカの聖母教会にいったん埋葬され、再び12月にはインドのゴアに運ばれ、天文23年(1554)3月14日にゴアに着き、修練院聖堂,聖信学院聖堂とその安置場所が変わり、元和10年(1624)以降ボム・ジェズス教会に移されて今日に至っています。

遺体が腐敗していないことを当時のゴアの人々は奇跡だと称えました。そして弘治2年(1556)、遺体の腐敗処理をされていない事を確認するために、医師が遺体の検査を行いました。その結果、内蔵はすべて生前の状態であり防腐剤が一切使われていない事が判明したそうです。そして遺体の胸の小さな傷があり2人のイエズス会士がその傷に指を入れたところ傷から出した指には血が付いていて、その匂いは生きた血とまったく変わらないものだったとのことです。

 慶長19年(1614)にイエズス会員の要望を受けて、イエズス会総長がゴア管区長に命じてその遺骸の右腕の肩から肘までを切り取り、日本とローマのイエズス会士が分け合いました。日本へ贈られた腕はゴアからマカオを経て日本に運ばれましたがキリスト教迫害下の日本では安全が保証されないということで、再びマカオに送り返されました。その後約200年間マカオの聖ポール聖堂に保管され、のちに聖アントニオ教会に移され、再び聖フランシスコ・ザビエル教会、そして現在、聖ヨセフ教会に保管されています。なお、寛永13年(1636)までに骨の一部と内臓のすべてが東南アジア各地に渡り、現在、右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されているそうです。

 ザビエルはこの間,元和5年(1619)に福者に,元和8年(1622)聖人の位に上げられています。ザビエルの遺骸は天明2年(1782)に公開され、近年は平成6年(1994)に第15回目が行われています。ちなみに、ボム・ジェズス教会ではミイラ化したザビエルの写真ですがお土産として販売されています。