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執筆者の写真木津宗詮

八朔(はっさく)

八朔とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことです。今日は茶の湯の世界では、各家元で門人や出入りの職方や業者により八朔の挨拶が行われます。



また、京都の花街でも黒紋付に白塗りの正装をした芸妓や舞妓が日頃からお世話になっているお茶屋さんに「おめでとうさんどす」って言って挨拶回りをします。そもそも八朔とは、早稲の穂が実り始める大切な時期で、農家では互いに助け合うための結びつきを強める目的で、八朔に新穀を主家や恩人などに贈る風習が古くからありました。



これは「田の実」が「頼み」に転じたことによるそうです。また、この頃から台風の被害や害虫・鳥の被害を受けることも多くなるので、本格的な収穫を前に豊作祈願と田の実りをお供えするという意味を込めて、「田の実の節句(たのみのせっく)」または「田の実の祝い」という行事が行われていました。また八朔の頃から台風が来ることが多く農作物の被害が多くなり、八朔は二百十日(にひゃくとおか・立春から210日目)と二百二十日(にひゃくはつか・立春から220日目)と併せて、「農家の三大厄日」の一つとされています。



この農家の風習が鎌倉時代の後期には武家や公家の間にも広がり、室町幕府では公式の行事として採用され日頃世話になっている人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになりた。そして徳川家康の江戸城入城が天正18年(1590)8月朔日であったことから、特に八朔は江戸幕府の重要な日として重んじられるようになり、正月に次ぐ祝日とされました。この日に八朔御祝儀として、大名や旗本が江戸城に白帷子を着して総登城し、将軍に祝辞を申し述べました。



長文になりますが、大名の江戸城総登城について以下に記します。




江戸時代、各大名はそれぞれの領地の君主であるとともに幕府に仕える身でもありました。このうち、老中や若年寄といった要職に就くと参勤交代は停止され江戸詰めとなり毎日江戸城に上がりました。それ以外の江戸に滞在中の大名および水戸藩など常駐している大名が江戸城に上がり、定例の月次登城が毎月28日、そして1日と15日、元日、五節句、八朔、家康の命日4月17日等に江戸城に上がり将軍に拝謁(拝賀)することで違背の気持ちがないことを常に示す必要がありました。大名が江戸城に上るにあたり、どれだけ近くに屋敷があっても供を揃えて行列を仕立てることになっていました。



その行列は小藩でも数10人、大藩だと100人規模でした。江戸市中の各大名屋敷(上屋敷)から一斉に行列が出発して江戸城を目指します。行列同士が鉢合わせになった時、互いが同格なら藩主は駕籠の扉を開けて目礼をするだけ、格下の場合は片足だけ草履を履いて駕籠の扉から出して下りるようなポーズをします。それに対し格上の大名は扉を開いて目礼をします。御三家の行列に遭遇した場合、大名は駕籠から下り両手をひざに当てて立ったまま深々と一礼をし、御三家は扉を開けて目礼となっていました。ちなみに参勤交代の道中の途中でも同様でした。



なお、行列の先頭には先供(さきとも)、参勤交代の行列の時は道中奉行が格上や御三家が来ないかどうかを確かめさせました。もし、格上の大名と遭遇するようなら直ちに側近に知らせ、挨拶が遅滞なくできるよう心の準備をしたそうです。なお、御三家の場合は道を変えて逃げる。横路のない場合はある所まで後戻りしたそうです。行列が江戸城に着くと本丸大手門および内桜田門(桔梗門)から入ります。



御三家と国持ち大名以外は「下馬札」という立て札の所で駕籠を下り単身で入城し、供の者は門前の広場で待ちます。



朝9時頃から昼まで供の者たちはじっと外で待ち続けました。そこで広場には腰掛けや湯茶が用意されていました。「下乗」まで駕籠が許されている大名も、「下馬」から先は侍6、草履取1、挟箱持2、駕籠かき4人の計13人と供の人数が限られ、この者たちは「下乗」の所で待機します。ただし、侍3人だけは玄関前まで随行が許されました。格式に関係なく、すべての大名は単身で城内に入りました。



大手門を入った藩主たちは、お城坊主(茶坊主)と呼ばれる担当の世話係に従うことになります。お城坊主は身分は低いのですが城内のしきたりや作法を教授するので威張り、逆に大名は委縮していたそうです。



お城坊主は城内のしきたりや作法を教えるのが仕事でしたが、次第に謝礼(指南料)を要求するようになったそうです。しかしこの習慣はそつなくこなしたいと思う大名の中から謝礼を渡す者が出てきたことによります。城内での謝礼のやりとりはできないので、登城日の翌日から茶坊主たちが各大名家を回り受け取ったとのことです。お城坊主は大名邸へ行き謝礼をもらうだけでなく、通された部屋の調度品などをさりげなく褒めてそれをもらって帰りました。当時はお客がなにかを褒めた場合、それは「欲しい」を意味し、それを拒否できなかったそうです。もしそれを受けないとあとで悪口を言いふらされると困るので、喜んでその場で進呈したそうです。またそうならないように客が気を遣ってあえて褒めなかったそうです。大名はお城坊主の案内でそれぞれの控室に通り拝謁の開始を待ちます。控え室は家格と規模により決められていて、御三家と加賀前田などの大大名は「大廊下」、島津、伊達、細川など10万石以上の外様は「大広間」といった具合です。





控室は畳敷きで机もなければ、たび重なる火災で極度に火を恐れたため真冬でも火鉢もない部屋でじっと待ったそうです。控室での席次も決まっていて、大名は左右の大名たちと当たり障りのない雑談をかわす程度。なぜなら控室には聞証人役の旗本が控えて会話の内容をチェックしていたからです。登城すべき前日、各大名家へ幕府より使者により当日の服装の知らせが届けられました。大名の服装は家格や身分により違いがあり、当日の儀式や行事の種類によっても異なりました。れぞれの階級や家格、式の種類により細かな違いを設けて差別化をはかり、全体的には公家の正装に準じていました。




なお、江戸城で用いられた長袴は恭順の意を示すためのものだそうです。歩行の際にははヒザの所を指でつまんで引き上げ、裾を蹴るようにしながら進む不便極まりないものでした。長袴を着用させることで大名たちの行動を制限させ恭順の意を示させました。長袴は城持ち大名だけで、陣屋の大名などは対象外でした。将軍との謁見は午前中で、他に用事がない限り城から退出し、家来たちが待機している大手門前へと単身出ていきます。



なお、総登城の拝謁は公務なので大名から将軍へ献上品をを持参する必要はなく、将軍からの下賜もありません。品物のやり取りはあくまで私的な場でのこととされていました。なお、拝謁を終えて残る大名は嫡男の初御目見えするケースが多かったそうです。御目見えをした者は将軍の家来ということになります。なお、家老が将軍に御目見した場合、その主君でさえもその家老の扱いは自由にできなくなりました。それほど将軍に御目見するということは権威のあったものです。控室で持参の弁当で昼食をとり、その後、御目見えをする者は部屋に通され、部屋の後ろの所に着座して平伏します。やがて将軍の御成り。将軍が上段の御簾内に着座すると横に控えている老中が平伏している者の紹介します。それに続いて将軍がじきじきに「夫(それ)」と一言だけ声をかけて初御目見は終了です。なお、この儀式を経た者は、今後は私的に会う機会もできました。初御目見とはいうものの、互いが互いの顔を見ないまま終わるのだから顔見知りにはなれないし、まったく印象に残らなかったと思います。御目見してもらう側はすごく緊張していたでしょう。時代劇や映画の世界とはまったく異なる世界です。この時代の格式というものは本当に想像を絶するものがあります。写真は武者小路千家11代家元一指斎筆になる横物「今日賀」です。



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