初代松斎宗詮23 此中斎(しちゅうさい)の後見

 以心斎(いしんさい)が家元としての働きができなくなったため、新たに以心斎に養子を迎えることとなった。『日記抜録』の天保12年(1841)8月13日に、大綱の古稀の祝いに黄梅院を訪れた松斎が、表千家10代吸江斎の次男慈眼を以心斎の養子に迎えたい旨を話し、そのことを聞いて大綱は大層喜んでいる。そして松斎からこの養子縁組の取り持ちを依頼された大綱は、吸江斎の後見であった住山楊甫(すみやまようほ)を通じ短期間に精力的に周旋し、この縁談が順調に運んだようである。ところが、翌13年(1942)11月11日に慈眼が亡くなり、この縁組は立ち消えとなってしまった。千家には他に適切な人材がなく、『日記抜録』の天保14年(1843)7月1日に改めて持ち上がった縁談について記されている。それは新善法寺(しんぜんぽうじ)家の次男留丸との縁組であった。このたびも松斎が大綱に肝いりを依頼し、大綱はそれを諾うべない、不審庵に話しに行っている。またこの折、松斎は釣書を持参していて、大綱は日記にその写しを控えている。「父 新善法寺権僧正」とあり、留丸の父は新善法寺劭清(しょうせい)である。新善法寺家は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社家の一つで、明治まで同宮の社務を司る最高位(現在の宮司)社務検校(しゃむけんぎょう)を代々つとめてきた三家(田中、善法寺、新善法寺)のひとつである。これらの家は代々子女を御所に入れ、公武の名家との婚姻を通じ、大層な権勢を誇る名家であった。留丸の父劭清は新善法寺家の18代目にあたり、天保9年(1838)社務検校になり、嘉永3年(1850)には僧正に転任し、嘉永7年(1854)に亡くなっている。この縁談が起きた時は権僧正であった。母は公家の五条條為徳(ごじょうためのり)の娘仲姫、兄は権少僧都澄清(ちょうせい)である。ちなみに澄清は慶応4年(1868)に還俗して南武胤(たけたね)と改名し、従五位下の叙任を受けている。当人の留丸は、武