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売茶翁筆是誰宛書状

 いつ書かれたものかは不明ですが、売茶翁から是誰に宛てられた書状が、藤原吉迪著「睡余小録」(「日本随筆大成」第一期六。書簡の部分、版本を凸版刷りしたもの)に収められています。是誰と売茶翁の親交を伝える、まことに興味深い内容です。この時の売茶翁は、相当生活に困窮していたようで、是誰に墨跡の周旋を依頼しています。同様の手紙を柴伝右衛門にも認めています。「只今ハ致老衰、茶ヲ賣ニ出候事も難叶候ヘ者」とあることから、長年にわたって携えてきた仙窠を焼き、売茶生活をやめた宝暦5年(1755)、81歳以降のことと考えられます。


 隠者道人抔と申者ハ、世ヲ不貪者ニ御座候、此隠

 者ハ、物ホシカリニ而、前方ハ茶ヲ賣リ米代ニ仕

 候ヘ共、只今ハ致老衰、茶ヲ賣ニ出候事も難叶候

 ヘ者、人之墨蹟ヲ頼候ヲ幸ニ致、拙筆ヲ不顧書候

 而、物ヲモラヒ申候、菓子や茶抔呉候人御座候へ

 共、何程結構成茶菓ニ而も、ヒダルサハ休ミ不申

 候、兎角米程之事ハ無御座候、サラバトテ、米斗

 りニても澄(済)不申候、時々ハ味噌汁も無ンハ

 不成、老人之事ナレハ寒気ニハ炭も入申候、扨又

 借屋賃大難ニ而候、左候へ者、金銀米銭程之事者

 無御座候、卑劣千万之隠者ニ而、無面目候へ共、

 此通ヲ御心得、拙墨頼候、人ニ者御取次可被成

 候、扨又貧者之望人ニハ、紙も有合候ヲ用ヒ、書

 而遣可申候、元より礼物抔と申事、曽而入不申

 候 已上




                     遊外


    是誰様


隠者道人などという者は、世を貪らない者のことですが、この隠者である私(売茶翁)はもの欲しがりで、以前は茶を売って米代にしていましたが、今は老衰してしまい、茶を売りに出ることもできないので、人が墨跡の依頼をしてくるのを幸いに、拙筆を省みず書いて、物を手に入れています。菓子や茶などをくれる人がいますが、どれほど結構な菓子や茶であってもひもじさが治まることはありません。何にせよ米ほど良いものはありません。だからといって、米ばかりでも済まず、時には味噌汁もないといけませんし、年老いた身なので寒い時は炭も要ります。また借家の家賃は大変難儀なことで、金銀米銭も必要です。私は卑劣千万の隠者で面目ないことですが、このことをご理解いただき、拙い墨跡を託します。誰かに売ってきて下さい。けれども貧乏な人が望まれたならば、紙も有り合わせのものに書いて送ります。もとより御礼などはまったく不要です。

是誰は売茶翁から為書入りの墨跡も贈られていて、親しい間柄であったことがうかがわれます。是誰と売茶翁の親交は、元鍛冶師で、のちに書で一家を成した亀田窮楽(きゅうらく)の橋渡しによるものかもしれません。窮楽も畸人として知られ、売茶翁とは非常に懇意であり、是誰とも交遊がありました。是誰とは同じ鍛冶仲間の頃からの知己と考えられます。

 売茶翁は墨跡や煎茶道具は言うに及ばず、85歳の時の手造りになる、


 欲知花乳清冷味 須是眠雲岐石人


 花乳清冷(かにゅうせいれい)の味を知らんと欲

 せば 須(すべから)く是れ雲に眠り石に岐(の

 ぼ)るの人なるべし


という銘の赤茶碗や、84歳の時に削った櫂先の手前が大きくくびれ、オットリから切止までが幅広で厚みのある留節の茶杓「今来古往」、平瀬家に伝来し、人の需(もと)めに応じて削られたとある、二つ節の「相生」という銘の茶杓など、自作の茶の湯道具を残しています。このことから売茶翁が煎茶だけでなく、茶の湯とも関わりがあったことがわかり、『売茶翁抹茶長巻』という抹茶に関する巻子も伝えられています。利休やその頃の茶人の逸話や故事、心得や点前を図入りで記していて、茶の湯を深く学んでいたことが知られます。

 これまで売茶翁は是誰から武者小路千家の茶の湯を学び、是誰は売茶翁から煎茶を学んだとされていました。また谷村為海は、売茶翁の生国佐賀の鍋島家が藪内流であることから、売茶翁は藪内流の茶の湯を学んだとしていますが、いずれも正鵠(せいこく)を得ていないと思われます。『売茶翁抹茶長巻』を見ると、武者小路千家流よりも古流の内容で、また藪内流というより、織部に関することが多く記されているようです。このことから、売茶翁は古田織部の流れの茶の湯を学んだのではないかと考えられます。なお、後年、


 黄檗は諸方の如く、茶事及読書文章を所業とせ

 ず、大悟発明を急務となし、座禅視法を専要とな

 すこと殊勝なり


と梅荘顕常(相国寺113世。売茶翁との交遊や伊藤若冲を支援したことで知られる)の門下聞中浄復(もんちゅうじょうふく)に語ったことからも、仏道修行に打ち込む雲水であった売茶翁が、佐賀時代に茶の湯を嗜んだとは考えられません。また、諸国行脚の後、龍津寺に戻って師に仕えて寺務をみていた時も、売茶翁の生真面目な性格からは、茶の湯に親しんだとは考えにくいことです。売茶翁は決して茶の湯者ではなく、茶をひさいで生計を立てる翁であり、還俗しているにもかかわらず、


 盧仝正流兼達磨宗四十五傳


を名乗り、自分こそが真の出家者であるという自負をもった一介の老人です。いずれにしても売茶翁にとり、武者小路千家流であろうが、藪内流であろうが、織部流であろうがどうでもよいことで、単に茶の湯というものを知識として学んだにすぎないのです。ただ、売茶翁は京都に来てから是誰と知己となって、武者小路千家の茶の湯に親しんだことだけは確かでしょう。ちなみに、売茶翁の詩では、通常茶を入れることを「煎茶」「煮茶」といい、是誰に与えた「舎那殿前松下開茶店」の詩と、もう一首だけが「点茶」と表現しています。「点」という語は、専ら茶の湯の世界で使われ、煎茶では「煎」「煮」が一般的です。点茶という語を用いたのも、売茶翁と是誰との交流によるのかもしれません。

 そして、是誰の大層わびた茶風は、売茶翁から多分に影響を受け形成されたと考えられます。ある不時の茶事で、初入の床に軸を掛けず、真新しい鍬を置いて客を迎えたという逸話が伝わっています。床の掛物は茶室の主人公であり、最も重要な道具の一つです。掛物に匹敵するものとして、是誰は鍛冶師である自身が精魂込めて鍛錬した鍬を用いたという話です。おそらく前例のないことで、是誰の優れた機転がうかがわれます。







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