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執筆者の写真木津宗詮

大晦(おおつごもり)

 明治5年(1872)12月3日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)の改暦の布告により、それまでの天保暦(太陰太陽暦・旧暦)を廃し、グレゴリオ暦(太陽暦)を採用して明治5年12月2日の翌日が明治6年(1873)1月1日となりました。それ以降は12月は「大」の月と定まり「31日」が大晦となりました。それまでは太陽太陰暦(天保暦)に基づき、「大」の月が「30日」、「小」の月が「29日」で、その年によりその配分もその年の暦により異なっていました。この布告は同年11月9日に公布されたため社会的な混乱をきたしました。暦の販売権をもつ弘暦者は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めていてすでに翌年の暦が発売されていました。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙りました。 大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、これほどまでの急な新暦導入は、当時、政府の財政状況が逼迫していたことによるとあります。すなわち、旧暦では明治6年は閏月があり13か月となりました。明治政府は官吏の俸給を新たに月給制としたためこの年はに13回支給しなければなりません。そこで新暦を導入すれば閏月はなくなり12か月分の支給ですみ、また明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1・6のつく日は休みで、これに節句などを加えると年間の約4割が休みとなり、新暦導入を機に週休制にあらためて、休業日を年間50日余に減らすことができるということもあったそうです。これもある意味「働き方改革」ですね。


  昨今存外長閑ニ   相覚へ申候然ハ   南紀ゟあさり貝   任到来進上仕候        當年   □にて風与    浅利とる      人や       目出度      年の       くれ   可笑〳〵        かしく       卜深庵     朧廿九日    郡様   尚々御令室様へ        りうゟ   宜敷申し上呉候様        申候かしく

  昨今存外(ぞんがい)長閑(のどか)に相覚へ申し候ば、南紀よりあさり貝到来に   任せ、進上仕り候、当年、□にて風与(ふと)   浅利(あさり)とる人や目出度(めでたき)年のくれ   可笑(かしょう)可笑   かしく   卜深庵    朧二十九日   尚々(なおなお)御令室様へりうよりも宜敷く申し上げ呉れ候様申し候、かしく   初代松斎宗詮の「郡宛書状」です。  郡氏は松斎の門人です。内容は、それまで新しい年を迎える準備で慌ただしかったのも暮もいよいよ押し詰まり29日ともなるとかえって長閑に感じるといってます。南紀(南海道紀伊)すなわち和歌山からあさり貝が到来し、それを郡氏にお裾分けしました。そしてふと一句詠み、それをお笑いぐさまでと披露しています。そして磯であさり貝をとる人も、いよいよめでたく新年をむかえる暮であると言祝いでいるという意味です。最後に松斎の妻りゅう(柳)からも郡氏の奥さんによろしく伝えてほしいとの旨が認められています。いつころ書かれた書状かは不明ですが、この年は29日が大晦日であったのかもしれません。  長閑な気分には到底至りませんが、ただ年々暮の風情がなくなってきました。また、自分自身にそういう気持ちがおこらなくなってきました。世の中が変わったことによるのでしょう。そして自分自身も年を老い変わったことによるのでしょう。ただ例年の行事や作業をを淡々とこなし、他の月とあまり変わらない気分で毎日を過ごしています。改まった気持ちが薄くなり、時間の経過がとても早く感じられます。こういうことが年をとるということなのだろうかと一抹の寂しさも感じています。

 昔は暮といえば大掃除に餅つきが定番でした。どこの家も大人から子どもま一家総出でやっていました。そしてお節料理はその家の主婦が棒タラを水で戻したり、黒豆を炊いたり、ごまめを作ったり、数日前から取り掛かっていました。そうした光景も今となっては懐かしいものとなりました。核家族化で家が小さな単位になりお節も昔のように作らない家庭が増えました。また、お節を食べても料理屋やコンビニで買って自家製が少なくなっていると思います。だから古い重箱やお碗がとても安い値段で売買されています。



 昔は正月の3が日はどこの店も休みでした。ところがいつの頃からか、デパートはじめ飲食店、コンビニなどが元旦から営業するようになりました。だから正月早々、外食が可能となり、それも美味しいものを食べることができるようになりました。  子どもは勉強や塾や部活で大晦日まで忙しくしています。だからそちらが優先されて一家総出の大掃除なんかできなくなってます。せいぜい自分の部屋の掃除と空いている時間に手伝ってもらう程度です。  餅つきも年末のイベントとしてやっているところがあっても、家で餅をつくことはほとんど無くなりました。子どもの頃は餅は正月とか祭などハレの時でないと食べることができなかったので、ある意味ご馳走でした。雑煮の餅をたくさん入れてもらったり、火鉢で焼いておやつに食べていました。ところが今は真空パックの餅が年中スーパーで売られています。今の子どもに餅を特別な日に食べるご馳走なんて言ったらバカにされてしまいます。またケーキやクッキーなどの洋菓子も多種多様のものがたやすく食べることができるようになりました。だから特別に餅つきしなくてもいいようになりました。私は餅が好きなのでなにか残念な気分です。ちなみに私の家では正月の三が日の朝食は丸餅を入れた白味噌仕立て雑煮と数の子、黒豆、ごまめがついた御膳を食べて家族で祝うことだけは守っています。





 ノスタルジックに浸るつもりもありません。また今の風潮を嘆く気もありません。これが日本の現実なのです。しかしながらこれまで書いたことはそんな古くから一般に行われていたものでもありません。これらが行われる前には、また、別の年末年始の光景が見られたことでしょう。そして内容も違ったものであったに違いありません。それが無くなり私が書いたようなものとなったのです。常に伝統はその時代に即したものに形を変えて継承されてきたものです。否定と破壊の積み重ねでもあります。必要なものが残り、不要なものは消えてきたのです。伝統は時間をかけてゆっくりと形を変えて伝えられてきたものだと思っています。現在は短時間で変化、消滅し、猫の目の変わるような、いや猫の目もついていけないようなスピードの時代です。伝統や習慣はこれからどうなるのか?私自身ついていくことができるのか?自分は淘汰されないのか?はなはだ疑問と不安を感じる今日この頃です。明ければ令和2年元旦です。余すところあとわずかとなりました。

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