• 木津宗詮

扶桑第一峰(ふそうだいいっぽう)

 扶桑とは古代、中国で日の出る東海の中にあるとされた巨木のこと、また、それの木のある地でをいいます。『山海経(せんがいきよう)』第九海外東経に、


 湯谷上有扶桑、 十日所浴 、在黒歯北、居水中 、

 有大木、九日居下枝 、一日居上枝


 湯谷の上に扶桑(ふそう=扶桑樹)有り。十の日

 の浴(ゆあみ)する所。黑齒の北に在り。水中に

 居す。大木有り。九の日は下の枝に居し、一の日

 は上の枝に居す。


はるか東海の黒歯国の北湯谷の上に扶桑があり、十の太陽が水浴びをする。扶桑の大木は水中にあり、九の太陽はその下の枝に、一の太陽が上の枝にある。中国古代神話では太陽は10個あって1個ずつが扶桑から昇り、ひとつ帰ってくると次の太陽がまた昇ってゆくということが信じられていました。のちに中国から見て東シナ海の東方に存在する島国である日本を指す語となり、「扶桑」とか「夫木(ふぼく)」として日本の別称になったそうです。

 古代の中国人は不老不死の仙人が棲むというユートピアである「蓬莱山(ほうらいさん)」にあこがれました。そして太陽が毎朝若々しく再生してくるという「扶桑樹」にもあやかろうとしました。亀の背に乗った蓬莱山の仙人のように長生きし、日々新たに昇る太陽のように若返ることを願い憧れてきたのです。なお、植物としてはクワであるとかリュウゼツランであるとか様々な植物の特徴を繋ぎあわせた架空植物とする説があるそうです。


   富士

     自得居士

       千廣

  不二かねの

   雪くれなゐに

     にほふ也

   今や朝日の

     海を出らむ


 幕末の紀州藩士で国学者、明治の元勲陸奥宗光の父である伊達千広(宗広)の懐紙「冨士」です。富士山の峰の雪が海から上った朝日に照らされて紅に美しく映えている光景を詠んでいます

 千広はは初め漢学を、のち本居大平について国学を学ました。10代藩主徳川治宝に重用され勘定吟味役から同奉行、寺社奉行兼務へと昇進して藩政改革の中心人物となり、藩内の尊王論を主導しました。治宝が没すると後ろ盾を失い、反体制派に粛清され、10年近くにわたって紀伊田辺にて幽閉されました。明治維新後、幽閉を解かれ、大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て晩年を過ごしました。ちなみにその地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名しています。

千広は木津家2代得浅斎と懇意な仲で、夕陽ケ丘の藤原家隆の墓の垣を造る時に松斎がその資金を提供しています。また息子の宗光とも交流がありました。得浅斎は勤皇の志が厚く、宗光はじめ勤皇志士たちと深く交わり彼らを支援しました。今日、得浅斎と宗光の関わりを伝える資料として、国会図書館の憲政資料室に、宗光が得浅斎の社中で十人両替加島屋長田作兵衛から融資を受けるにあたり、得浅斎に斡旋してもらうようにと宗光に宛てた宗広の手紙が残されています。







   海を出らむ

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